いま、中国の会社で働いています。会社の機密やその他に触れないように、さしつかえない範囲でどんな模様か、お話しします。一人でも多くの日本人が中国で働かれることを望みます。
子供のころはいろいろ日本について主に否定的なことを学んで、最近日本語を2〜4年勉強して、始めて日本へ仕事で出張した方々のコメントです:
北京への出張は同僚3人と、3月下旬にありました。飛行機で行ったもので(大連から1時間、片道640元)、ホテルは会社が契約している木[木犀]地 mu4-xi1-di4(地下鉄で天安門西駅の4駅西側)にありました(2人でツインルームに泊まり、1人360元)。毎日午前中、午後それぞれ2社の欧米日中の会社を回り、大連ソフトウェアパークへの誘致をしました。大変印象的だったのは、ヨーロッパの2社が日本ではほとんど事業を展開できないでいるのに、中国では大々的に事業をやっていることでした。ドイツの重電機会社、ジーメンス(Siemens)は北京の東側の広いキャンパスにあり、この中に中国本社、教育施設、宿泊所などもありました。スイスの重機械会社、ABB(1989年にスエーデンのASEAとスイスのBrown, Boveriが合併したもの)は、さらに東の中関村科技園(北京大学周辺以外の新高技術園区は、いまはすべて中関村と呼ばれているようだ)のゆったりとした2階建ての建物が続くところにあり、隣りにオランダのネッスルNestleの中国本社もありました。
帰りの飛行機の切符は予約してなかったのですが、ホテルの切符売り場のコンピューターが壊れていたので飛行場で買おうとしたら、国内出発便の入り口から入って右側の売り場で売り切れで、とすぐに調子のいい2人の女性が現われて、大連行きの切符は1人75元を払えばあるという。一応75元を支払って、どうするのかなと興味深々観察したら、入り口を入って1番左側にあるキャンセルされた切符の売り場で買ってきた。どうやら、右側の売り場(キャンセルされた切符売り場を確かめなさいとは絶対教えない)と左側の売り場(多分多少の分け前を貰う)とこの2人の女性(大学出の新人類)がグルになって、無知の田舎者から1人75元を巻き上げる、中国最悪の新商売でした。生き馬の目を抜く北京の首都飛行場なので、要注意!次回は時間を取って、日本人でも私服警察をつれて行って、やりとりを録音・写真を撮り訴えたいと思うので、次回の北京出張が楽しみです。^-^(2003.03.26.)
上海への出張は同僚1人と、会社に勤めて2年目の3月初めに4泊5日(火夕方〜土)誘致の仕事で行きました。上海へ行くのは、私は3回目。この前年には1人で上海へ行ったこの同僚が、急に董事長のお供で日本出張になったため(東北3省の仙台および東京会議)、前の週から日系企業に誘致の訪問計画を、浦西(黄浦江の西)の南京東路あたり、浦西の南京東路以外、裏東あたりの訪問先の3つに分けて予約して行ったもので、肝心の会社の1つが訪問できなかった以外は、おおむねいい訪問でした。前日の火曜日の夕方大連を出て、飛行機で上海へ行き、1日4件の訪問で、大変疲れました。これから出張報告を書かねばならない。
上海は大連に較べて沢山の西洋料理店があり良さそうでしたが、食事は一緒に行った同僚の趣味で中華に限られ、准海路にある伊勢丹デパートの地下にある大食代という食事ブースがある所で食べたりで、上海料理を食べる機会もなかったのが残念。ただし木曜日の夜は上海の日本人友人と、シンガポール料理店、Cross Road Cafe(南京西路@常徳路)へ行きました。お泊りは上海興宇大酒店(021-8333-8888)という外灘(ワイタン)のすぐ南の人民路にある4スターのホテルで、早朝は5分くらい歩くと外灘へ出られたのでそこでジョッギングをしたり、人民路向かいの古城公園から豫園(ユーユェン、浅草のような所)で散歩して楽しみました。金曜日の夜はYMCA(青年会賓館、西蔵南路@延安路の少し南)へ移り、近くの沐恩堂(Moore Memorial Church、西蔵南路@)へ下見にいったら丁度ノルウェーから来た聖歌隊が受難節の音楽会(?)をやっていて、そこに入り、土曜日は朝9時に懐恩堂(狭西北路@北京路)へ行き、聖土曜日(イースター前日)の礼拝に参加しました。(2004.04.10.)
これに伴って、大連市の李泳金市長から夏徳仁氏への交代も見ました。大連出身で、以前東北財経大学の学長で、現在の遼寧省副省長(ハイテク担当)の夏徳仁氏が次期市長になり、李泳金氏は人民代表になるといううわさが10月ころから流れ、すでに大連市共産党の副総書記になっているそうです。もと大連市長で現在遼寧省長の薄煕来氏の推薦というところでしょうか。市長になるのは、やはり2月です。(2003.01.08.)2月と思っていたら、1月にもう新市長さんに代わったそうです。遼寧省の薄煕来省長さんの再選は前日の省人民代表大会できまったと、きのうの朝刊・新商報で見ました。(2003.01.29.)
3月になって、中国政治商協会議が北京で開かれ、これは様々な各界の代表が政治とは離れた身近な問題を議論するようです。その後すぐ、3月5日から全国人民代表大会(日本では全人大といっているが、中国では人大といっている)が開かれ、どうやら胡錦涛国家主席が決まり、江沢民は軍事委員会長に残るようです。(2003.03.05.)。国家主席も市長も、共産党中央委員会あるいは遼寧省からの任命で、公開選挙はまず共産党レベルで行なわれ、その後に全体の承認が行なわれるというのが、中国式政権交代というところでしょうか。
会社は12月締めなので、今年の結果、来年の計画などの会議がありましたが、日本に較べて概念的な内容で、日本でのように今年の売上目標と結果の数字を比較してというような具体的なものではありませんでした。大連市情報産業局、科学技術局、高新技術園区、うちの会社が属する集団に対する4つのレビューも行なわれました。午後4時にホテルの会議室を借りて今年の結果のレビュー、現在の問題点などをプレゼンテーションし、コメントをもらうもので、そのあと宴会になります。木・金・土・月と続いたので、特に宴会で各テーブルを訪ね乾杯せねばならず大変でしたが、前3つの宴会で「リーダーのみなさんのおかげで」と政府関係者に感謝する乾杯が続いたのが印象的でした。この「リーダー」(領導、リンタォ)という言葉は中国でよく使われれ、もともと共産党中央の人たちを意味していたのでしょうが、各省・市の共産党、政府関係者、会社の社長、副社長に対しての感謝の気持ちも表しています。
集団の忘年会は年末の土曜日午後4:30からシャングリラ・ホテルで行なわれ、我が社の出し物は12月はじめから練習した私が指揮する「四季の歌」、「幸せなら手をたたこう!」を歌いました。会社の忘年会は1月の始めの金曜日の午後2:30から南山賓館のプールで泳ぐことから始まり、宴会室でゲームを沢山やって、表彰で私は友好交流賞をもらい、その日はそこに泊まり、翌朝散会しました。
12月31日おおみそかと1月1日の正月は、うちの会社は1日だけが休暇と聞いていたが、30日になって31午後から2日の2.5日が休暇となりました。31日深夜12時少し前に市内の3か所で5分間くらい花火があがっただけで、特に何もなく、正月行事は今年は2月1日の旧正月までおあずけ。私は1日午後に恒例で新年会に招いてくれる人があり、雑煮やおしるこをを食べてきました。
1月25日(旧暦12月25日)は小年(児)(シャオニュアー)で、この日から旧正月(大年、ターニエェン)の準備がたけなわになります。昼間から街のあちこちで爆竹が鳴って、商店はどこもさらに混んできて、いよいよ旧正月が近づいたなと感じます。人民広場と星海広場は特別な飾りつけ、その他の広場は簡単な飾りつけ。私の中国語辞書には小年は旧暦12月23または24日で、祭竈(かまどの神様の祭り、これは私が子供のころ長野県北部では母がかまどをかざってやっていた)とあるが、これ知っている中国人はほとんどないですね。(2003.01.28.)
1月29日午後、会社が属する集団の董事長と社員の交流会が開かれ、約20名がそれぞれ自分の感想を2〜3分で発言し、そのあと董事長が40分くらい今年の予定などを話しました。私は簡単な感想と問題点をいいました。
1月31日は徐夕(大晦日)で、夕方テレビでは晩会のプログラムがあり、大連テレビは青島と深[土川]と共同のプログラムでした。夕方6時、7時に待ちのあちこちで花火と爆竹が鳴りだし、11時ころから最高潮に達し、2時くらいまで続きました。(台湾では明け方まで続き、窓が明るくて眠れなかった。)中国北方では夕方家族みんなで餃子を食べるが、私は翌日日本へ出張するので、それどころではなかった。
今年の旧正月(春節)は2月1日(土)でしたが、私はこの日に同僚10人と日本へ出張したため、よくわからなかった。(空港では、みなさん、あまり新年おめでとう!とは言わなかった。)旧正月2日(初二)から7日(初七)まで夜8時に、星海広場で花火大会があるらしい。日本から帰ってから、2月15日(土)は旧暦1月15日で元宵節。昼間から爆竹が鳴り始め、夕方6時ころから花火が始まり、夜8時ころに星海広場にいったところ、きれいな電飾を見に大勢の人出でした。行き帰りの途中は、中山路が電飾できれいで、道路傍は爆竹の空でちらかっていた。アパートに帰ったら、目の前50mくらいに花火を揚げる人がいて、きれいだやら、危険だやらで、中国人は本当に爆竹と花火が好きだと思いました。寧波産の黒ごま入り元宵(だんご)の冷凍を買ってあったので、これをお湯で溶かして食べました。道路傍で紙を燃やしている人をときどき見かけましたが、これはどういう風習でしょうか。(2003.02.16.)
大連へ来て3年目は、日本の正月を3年ぶりに過ごして、旧正月の2日目(初二)に大連へ帰ったので、この日から6日目(初六)にかけて毎晩8時から星海広場で行われる旧正月花火大会の詳細を知るようになりました。初二の開幕式は私は見なかったのですが、友人の猪瀬和道さんによると、準備のためか大変遅れて8時半から始まり、クラシック音楽に合わせて花火をあげるという日本でもあまり見られないすばらしいものだったそうです(この日は大変寒く、風も強かったので、体感温度は−15℃?)。初二に行った人はやはり遅れて8:20ころから始まり、日本やイタリアの花火師も参加した大変いいもの、初三は一般的な花火大会で20分間で終わり(気温−5℃)、初六の開幕式は多少ハデでしたが、8:00丁度に始まり15分間で終りました(気温2℃)。日本人は花火というと、7・8月の海岸か河川敷を連想し、米国人は7月6日の独立記念日を思い出し、中国人というと、旧正月の冬の寒空に上がる花火に親しみが湧くようですね。今年は元宵節(旧正月15日)の灯篭を労働公園でゆっくり見たいです。(2004.01.28.)
我々の部は日韓招商部なので、大連韓国人協会(人寿大廈20階、Tel. 265-0999 x2016、Ms.金)もいろいろと教えてくれました。大連市は韓国企業の誘致には成功していませんので、これから私の2人の同僚(朝鮮族)を中心に力を入れてゆきます。(2003.03.07.)
- 「日本語大辞典」(講談社、1989)
1990年代に日本ではやりだした、日本語のことなら何でも載っている辞書の先駆けで、百科辞典のようにして使える。- 「日中辞典、第2版」(小学館、2002)& 「中日辞典」(小学館、1992年)
この辞書が中国で中国語を学んでいる学生たちに1番人気があり、10人に約7人はこの辞典を使っています。(初版はCD−ROM版も出ている。)「日中辞典、第2版」は今年出たもので、特にIT関係の用語が充実している。- 「中日大辞典、増補第2版」(大修館書店、1987年)
中国語研究者が必ず持っている辞書で、おそらく日本最大のもの。戦前、東亜同文書院(大学、上海)で学ぶ学生たちが中国各地を研修旅行した際に集めた粗資料カード14万枚が戦後周恩来首相のはからいで愛知大学(東亜同文書院の後進で、日本の中国語教育の中心)へ返還されて、1968年初版が出た- 「ユニオンマップ 東京23区・多摩」(国際地学協会、2002年5月)
最新版の東京の地図です。去年、地下鉄の南北線と大江戸線が開通して、東京の交通はさらに複雑になりましたので、使ってください。- 「日経、会社情報」(日本経済新聞社、2002年9月)
これと「会社四季報」(東洋経済新報社)は株式情報誌ですが、東京株式市場に上場している主な会社の住所、役員名なども載っていいて、便利です。- 「中国黄頁、大連電話番号簿」(中国電信、2001年1月) 中国の会社では電話番号簿がなかなかないので、大連駅前の郵政局へ買っておきました。
- 大前研一「チャイナ・インパクト」(講談社、2002年3月)、大前研一「中国シフト」(小学館、2002年7月) もうみなさんは、よくご存知ですね。中国での事業のコストの比較などが載っていて、私たちの仕事に大変参考になります。前者を私は火曜日の日本語コーナーでテキストとして使っています。
- 「ソフトウェアのISO 9000」(日経BP,2001)、三上吉彦他「マルチリンガルWebガイド」(O'Reilly Japan、1997)、「Java国際化プログラミング」(O'Reilly Japan、2002)
コンピューター&インターネットの専門書です。
- 町田奈美「はじめてのExcel97」(秀和システム、1998)、長田健「はじめてのPowerPoint」(秀和システム、1999)
コンピューターの学習書です。その他は自宅に置いています。- 「地球の歩き方、大連と東北地方」(ダイヤモンド社、2000)、「大連に暮らす、第2版」(日本貿易振興会JETRO、2002)
両書は大連の旅行、大連に暮らすときの参考書。- 「中国投資、マーケティング戦略マップ」(アスカ、2002)、戸松信博「10何円から本気で増やす中国株」(情報センター、2002)、サーチナ「2002年度、中国企業情報」(中経出版、2002)
私の中国ビジネス学習手引き書です。- 澤地久枝「もうひとつの満州」(文芸春秋社、1982)
著者が1981年、楊靖宇の足跡を尋ねた記録。- 「Merriam-Webster's Collegiate Dictionay, Ninth Edition」 (1987)
この辞書がいまでも米国の大学で1番使われていて、新しい用語はまずこの辞書に載ります。アメリカ式スペリング&表現の参考になる。このCD−ROM版(2000年版)を私は自分のパソコンに入れています。- 「Dictionary of Information Technology 英漢双解信息 技術辞典」(外語教学与研究出版社、2000)
米国Peter Collin Publishingの辞書の翻訳。- 隔週刊「日経コンピューター」(日経BP)、週刊「日経ビジネス」(日経BP)
日本の企業で一番良く読まれている雑誌で、牛島五郎さんが友人から送って貰っているのを、私が貰い受けているもので、葉鳴さんの席の左の棚に積んであります。- 「デジタル用語辞典2002〜2003年」(日経BP社、2002年3月)
コンピューター・通信・携帯関係の用語の解説と英語のスペル。- 「パッケージ・ソフト総覧2000年」(日経BP社、日経コンピューター2000.08.28.号)
日本で販売されているソフトウェアの解説。IBMのソフトは私が書いたものが残っている。
8月末のある日曜日に大連南岸の銀沙灘へ会社の行事で泳ぎに行った時に、ロシア人の2家族と話す機会がありました。ロシア人はほとんど英語ができなくて、ほんのいくつかの英語の単語を並べるだけというのが常ですが、私は学生時代にロシア語を習ったので、簡単な会話なら今でもできます。1つ目の家族は老夫婦で、ブラゴベシェンスク(黒龍江省の黒河の隣)の近くに住むセルゲイとガリーナさんで、セルゲイは水力発電所のエンジニアで、大連の療養所で10日ほど休暇を過ごすといってました。2つ目の家族は、ご夫婦と17歳と7歳の娘さんの4人で、お姉さんの方が大変な美人で、ビキニ姿で浜辺にうつ向けになってブラジャーもはずして日向ぼっこをしていたので、私は会社の中国人女性も連れていって、しばらく話し込んだのですが、黒龍江省漠河(中国最北端)の近くのスコボロディーノからヤクーツク(シベリアのど真ん中)・マガダン(オホーツク海岸)へ行く道路が第2シベリア鉄道BAMと交差する所、ティンダ(Tynda)に住んでいて、そこは冬零下30〜40℃になるそうで、ご主人は鉄道技師、奥さんは若い頃は美人だったでしょうが今は大変太っていて、お姉さんは学校で英語を教えているといってました。会社の優秀労働者のごほうびだったのでしょうか、大連からモスクワ・レニングラードを廻って、ドイツまでいく40日の休暇だそうで、近くの療養所に泊まっていると名刺を見せてくれ、私も会社へ遊びに来てくださいと名刺を渡しましたが、その後は会わずじまいです。中国人の同僚が「大連でのショッピングはどうですか」と聞きたかったのですが、私は「買い物、買う」というロシア語(パクープキ、パクパーチ)を思い出せず、うまく聞けませんでした。(2005.08.27.)
きれいな砂浜海岸の銀沙灘へは8月末の土曜日に、我が社の子会社の創立2周年記念の「上海活動」(従業員を海に連れて行く行事)で行ってきました。入場料2元で入れて、みんなでテントの下で持参のビールを飲んだり、チェンツ(羽根突きの羽を蹴る遊び)や2人3脚や目隠しした人が4本の縄をくぐったり飛び越えたりする遊びなどをやった後、バーベキューを食べて、私は少し泳いで、上に書いたようにロシア人の2家族と交流したりして、用事があったので早めに家へ帰りました。ここは付家荘経由の野生動物園行きのバスを途中で降りる。(2005.08.27.)
金沙灘は野生動物園の斜め前にあるので、西大山へ登る時に何度も前を通っていますが、まだ行ったことがありません。ここは付家荘経由の野生動物園行きのバスを終点で降りる。
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