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英語 – English – 英语
By Yoshi Mikami / 三上吉彦
内容 |
英語の学習経験
中学で英語を習う
東京の中学校で初めて英語を習った。学校で使った英語の教科書は「Jack and Betty」で、冒頭に「I am Jack Jones. I am Betty Jones.」がある。英語の授業で、打田先生が「“Z”はどう発音するか?」と聞いて、生徒が30人くらいいたろうか、みんな次々と「ゼット」と答え、先生は「違う。」といい、最後の方にいた私はもう一人英語がよくできた村上くんに「きみはズィーと言え、私はゼッドというから。」と話して、先生は「ゼッドがいい。」といってくれたのを、覚えている。
打田先生はその後アメリカの教会に渡りをつけて、ミズーリ州リーズ・サミット(Lee’s Summit)という小さな大学へ留学してしまい、帰国して広島大学の先生になったと聞いているが、よく分からない。彼から紹介してもらい、アメリカの男の子(名前を忘れた)と女の子Amanda Rossさんを紹介してもらい、しばらく文通をして、彼とは当時の映画「デービー・クロケット」(Davey Crocket)の歌の歌詞を教えてもらったり、彼女からは写真を送ってもらったりしたが、長続きしなかった。 津田英語塾で英語を学ぶ
どういういきさつからか、国鉄千駄ヶ谷駅前にあった、津田塾大学の卒業生が運営する津田英語学校(現在の津田塾大学千駄ヶ谷キャンパス)へウィークデイの夕方や土日に通ったりもした。鈴木忠男くんも、他の者もいっていて、勉強するというより、いい遊びだった。 高校での英語授業
都立の高校へ通っていた時代は、国語・乙(古文・漢文)の中村高樹先生が「(国語)古文ではこうして形容詞が副詞のように使われる例は多く、いま英語でもプレスリーが“Love
me tender, love me true.”と歌っているのと同じだ。」と説明したのですぐ納得したような時代だった。英語は増田良繁先生や、オキャンと呼ばれた古川先生(女性)や、高倉忠博先生などがいたが、高倉先生は東京大学を卒業したばかりで、発音が抜群に良く、NHKの海外放送もやっていて、私はNHKの海外放送を愛宕山のNHK放送局へ実際に見にいったりした。 高校時代、私は英語の小説をよく読んだ記憶がある。一番感心したのは、英国の作家トマス・ハーディで、「ウェセックス物語」(Wessex Tales)の「3人の訪問者」(The Three
Strangers)などが面白かった。ワシントン・アービングの「スケッチ・ブック」(The Sketch
Book)の「リップ・ヴァン・ウィンクル」(Rip Van Winkle)もよかった。いつかイギリスの南部、アメリカのニューヨーク州にいってみたいと思ったが、のちに後者は行く機会ができたが、前者へはまだいっていない。高校の英語授業ではサマセット・モーム(Sumerset Maugham)の「人間の絆」(Of
Human Bondage)などをよく読まされたが、私は好きではなかった。。 大学で英語を学び、授業で使う
国際基督教大学(ICU)の1年生の時には、体育と一般教養1科目以外は、日本人は英語の勉強だけで、日本人以外は日本語の勉強だけで、2年生以降はどの学科を専攻しても、日本人の先生からは日本語で、欧米人の先生からは英語で授業を受けられるというような日英両語システムだった。英語の勉強ではリンディ先生(Richard
Linde)が大きな役割を果たし、またラボ(laboratory)と呼ばれたソニーのテープレコーダーを使った訓練施設も充実していた。1年生を終って、英語の実力がかなりついた段階で、学校の図書館が日本語と英語の本が半分ずつで、こんな沢山の英語の本が読めるような世界があるんだと、感激したことを覚えている。 2年生以降、私の専攻は物理だったが、物理関係と数学関係は日本語と英語での授業半々に受けている。英語の教科書は海賊版が横行する中を、おもに講談社のModern
Asian Editionという廉価な正式版をおもに使った。 米国の大学院で
大学を出てすぐアメリカのコンピューター会社(IBM)の日本子会社で働いて、様々なマニュアル類が英語のもが多かった、横浜や神戸の営業所で働いた勢か、特に英語を使った覚えはない。入社4年目に会社の奨学金を得て、神戸でGREとかTOEFLの試験を受けて、米国ペンシルバニア州ピッツバーグの大学院(CMUのGraduate
School of Industrial Administration、現在のTepper School of Business)で2間学んだ。大学院生の寮で夕食後にみんなでそろって見た18:30からのCBSニュースも含めて、すべてアメリカ英語世界だったが、特に困ったことはなく、ただ同級生60人のうち6人がインドからの留学生で、あの機関銃を打つような平板な発音や、イギリスからの学生の英国英語、中米のカリブ海あたりから来た学生のなまりある英語に初めて出くわした経験だった。 (2015.09.11.) 仕事で英語を使う
米国留学後同じ会社へ帰って、研究所長のアシスタントを務めた時期には、仕事では日本語と英語の半々の生活だったと思う。 ノースカロライナ州とニューヨーク州で
米国ノースカロライナ州に2年、ニューヨーク州に間を置いて4年、長期出張(コンピューター端末機の開発)で家族と住んだ。ニューヨーク州の英語は特に問題なかった。ノースカロライナでも仕事上では米国北部から来た人が多かったので英語に特に問題はなかったが、町で買い物をして出ると「Come back to see us!」と南部独特の言い回しをいい、うっかり土地の人を捕まえて道順を南部訛りでかえって分からなくなる経験をした。 台湾で
1990年代始め、台湾へ長期出張(ソフトウェア開発会社のめんどう)で家族と1年余過ごした。中国語を習い始めたが、同僚がみな英語を話すのと、アメリカン・クラブの会員権を会社がくれた勢もあり、ほぼ英語で過ごした。習った中国語で使ったのはもっぱらタクシー用語だった。日本では道路標識やパスポートを英文字で表現するにはヘボン式を使うが、台湾ではピンインでなくWade-Giles方式を使い、例えば「高雄」はKaohsiungで、ピンインのGaoxiongとは違うのを発見した。 外国語は習うより教えろ
外国語は一生懸命習うより、教える方が早道だ。2001年に私は退職したが、その年の2年位前から英語でキリスト教聖書を読む会を何か所かで指導していた。その年の1月の受けたTOEICは3つ間違えただけで、975点で最高だった。神様の助けも十二分にあったに違いないが、「習うより教えろ!」を実感した! 中国で
2000年代に入り退職後、中国・大連で14年間奉仕した。中国語を本格的に習ったので、中国語と仕事上は日本語を多く使い、英語は日曜日に外国人用の教会へ行って使った。滞在中の後半は中国へ来ているアフリカ人との交流が多くなり、彼らが話す英語は私とは比べ物にならない位立派なのに感心した。この時代の一番の収穫は英中日3か国語の本『大連の春』を出版したことで、英語は達者な日本人友人や英国人に見てもらったが、自分の英語の文章があまりにも物足りないのを痛感すると同時に、本当に英語は世界に通じることを実感した。 ハワイ州の英語
2015年夏には本当に退職して、米国・ハワイへ移住した。その年の春に日本へ帰って住んでみると、すごい違和感を感じて、昔住んだ米国へしばらく滞在してみようと思った。ハワイの英語は独特で、まず土地や道路の名前にハワイ語が多く使われていて、また日常語にも沢山のハワイ語が使われていて、例えば「Keiki at play!」は「Children at play!」で、「子供がここでよく遊んでいるから、運転注意!」の意味だ。また、ハワイ独特の言い回しも多く、「coconut wire」とはWiFiの連想なのか、「みんなのウワサで知りました。」のような意味だ。 (2015.09.12.) 参照: |
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Created by Yoshi Mikami on Sept. 12, 2015. Updated on Sept. 13, 2015.
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