通勤 – Commuting to Work – 上下班

By  Yoshi Mikami / 三上吉彦

『飯綱山の初雪』(2012.11.21.)から

 

内容

アメリカ.. 2

ペンシルベニア州... 2

ノースカロライナ州.. 2

ニューヨーク州.. 2

ハワイ州.. 3

アジア... 4

台湾・台北市で.. 4

中国・遼寧省大連市で.. 4

日本で東京~横浜を通勤... 4

日本で神戸市の通勤.. 5

日本で神奈川県藤沢市内通勤... 5

日本で神奈川県藤沢市~川崎市/東京都中央区への通勤... 5

 

 

アメリカ

 

ペンシルベニア州

 

米国のペンシルベニア州ピッツバーグでの大学院生活では、1年目はマッジ・ハウス(Mudge House)という大学院生の寮に住んでいたので、フォーブス・アベニューを信号で渡り、大学キャンパスを西端から東端へ歩き通学した。2年目はスクイレル・ヒルで友人と家を借りていたので、歩くと20分もかかり冬は寒かったので、自慢のフォード・ムスタングでフォーブス・アベニューを下って通った。

 

ヒマがあるとこの車でニューヨーク市まで、総計5・6回通った。U.S. Route 22を東へ延々と行く道で、州都のハリスバーグでサクケハナ川を渡り、アレンタウンのそばのイーストンでデラウエア川を有料橋で渡りニュージャージー州へ入り、ニューアークからホランド・トンネルか、少し北へ上がってリンカーン・トンネルでハドソン川を渡ってマンハッタンへ入った。今Rand McNally «Road Atlas '04»を見るとU.S. 22のハリスバーグからはInterstate 78がほぼ完成していて、144マイルだというので、ピッツバーグからは全体で200マイル位を運転したのだろうか。マンハッタンではHoward Johnsonホテルが無料で駐車できるのを発見して、毎回そこへ泊った。(1969.08.1971.05.)

 

ノースカロライナ州

 

米国のノースカロライナ州ローリーに2年間赴任していた。最初はケアリーという町に住み、2年目からはローリーに移り、車生活をした。最初は車1台で妻が送ってくれたりしたが、後に子供ができたころはもう1台の車を買った。ローリーからは、まずベルトウェイへ乗って、すぐI40高速道路に入り、それはチャペルヒルへ行く半分くらいまでしか完成してなく、途中のRTPResearch Triangle Park)で下りるとすぐIBMの開発研究所・工場へ30分くらいで通った。この時期は石油危機があり、苦労した時期もあった。ニューヨーク市の北郊外にある開発グループ本部やマーケティング本部への出張は、RTPすぐ近くのローリー飛行場から行った。 (19731975)

 

ニューヨーク州

 

ピッツバーグでの2年間の大学院生活の間の夏休み3か月は、ニューヨーク市にあるIBM World Trade会社の本部で働いた。ハドソン川添いで122番街あたりのインターナショナル・ハウスに住んでいたので、毎日ブロードウェイの125番街駅(夜間は危険な所だった)から、国連のそばにあったIBMの建物へ通ったが、途中で他の線へ乗り換えたか今はっきりと覚えていない。地下鉄は暑くて、閉口した。(1970)

 

ノースカロライナ州ローリーに続いてニューヨーク州キングストンKingston, NY)へ転勤した時も車通勤で、住んでいたアパートから10分くらいの運転だった。開発グループの本部とマーテティング本部へはニューヨーク・スルーウェイを通り、タッパンジー・ブリッジでハドソン川を越えて2時間くらいで打合せに行った。19731977年)

 

ニューヨーク市の北郊外のアーモンクに住み、車で近くのホワイト・プレインズWhite Plains)の町中にあるIBM事務所へ2年間通った。春が来るのが遅く、5月の末の休みからは真夏の暑さになる大陸性気候で、でも秋の紅葉はまわりのどこでも見れて抜群の眺めだった。開発グループの本部とマーテティング本部へもよく車で行ったが、10分くらいで行けて便利だった。ニューヨーク市のマンハッタンにあるマディソン街590番地ビルへひと月ほど営業研修も兼ねて行ったのは、アーモンク近くのノース・ホワイト・プレインズ駅で駐車して、メトロノース鉄道のハーレム線でグランド・セントラル駅に出て、さらに地下鉄でいった。(19831985年)

 

ハワイ州

 

ハワイ州ハワイ島のカイルア・コナKailua Kona, Hawaii)に住んだのは退職後で、そこの家から何回も通ったのは、朝孫たちを学校へ送り迎えすることだった。まず、朝家の前の道を登ってハワイ州道190号線(コナから北回りでヒロへ)へ出て、コンビニMatsuyama店を経て南へ下り、Hina Lani通りとの交差点の信号までは朝8時過ぎは通勤族で込んでいて、Kaiminani通りまで車が並んでいることがある。そこからすぐのPalani通りとの交差点で州道180号線に入り、この道は旧道でクネクネと曲がっていてDoutorコーヒー農園とUCCコーヒー農園を経過してさらに南へHolualoaまで行き、一人の孫を小学校で降ろす。そこから180号線を少しだけ南下してHualalai通りへ入り、次に左へLako通りの急坂を州道11号線(コナから南回りでヒロへ)へ下り、右へカイルア・コナ方面へ向かったらすぐKuakini通りへ入り、しばらくしてもう一人の孫をプリスクールで降ろし、ここでは自分も降りて子供預け帳にサインをする。そこからKuakini通りをさらにカイルア方面へ向かい、Henry通りを登り、Palani通りで州道190号線へ入り(ここではカイルアの町へ向かう反対方向へは交通が混んでいてKealaka’a通りの信号まで並んでいることがある)、来た道を家へ向かう、全体で1時間・25マイルのコース。 (2015.11.03.)

 

 

アジア

 

台湾・台北市で

 

台北では北郊外の天母というアメリカンスクールや日本人学校が比較的近くに住む地域のマンションに住み(参照:下記の注)、近くのバス停から中山北路を一途に南下して八徳路にあるIBM台湾本社近くで下りて通った。バスの運転手の給料が載せた乗客の数に比例していたので、各バスは競争して猛スピードで走って前のバスを出し抜くので、ただでさえあのおびただしいオートバイの群れの中を走るので、怖かった。会社では英語で話しかけられたので中国語は上達せず、タクシーは帰宅時に時々利用したので、「右へ曲がれ」(右転)、「大通りを渡ってから停車」(過馬路停車)などのタクシー用語だけは上達した。日本企業の日本人従業員はおおむね車運転禁止令が出ていたが、我が社はそういうことはなかったのでホンダ車を買ったが通勤に利用したことはなくて、おもに妻があのおびただしいオートバイの中を縫って平気で(気を付けて?)利用していた。19901991年)

注:もともと台北へは単身赴任のつもりが、米国の会社だったのでアメリカンスクール(美国学校)登校の費用を払ってくれるというので家族も同意して赴任し、しかもこの学校には富裕層の子弟の長い待ち行列があったが、我が子たちは米国生まれで米国市民権もあったので優先してすぐ入学できた。美国学校は上の娘が特に楽しんだようで、陸上部でマレーシアへ遠征したり、歌手で映画俳優の金城武が1年上で、タイピング・クラスで彼と一緒だったりしたという。また、アメリカンクラブへの会費も払ってくれたので、そこのレストランやテニスコートをよく利用した。

 

中国・遼寧省大連市で

 

中国・大連市での通勤は、もっぱらバスを利用した。市内の万達華府というエリア(黄河路x東北路)に住んでいた時には、五一広場出発の26路バスに東北路で乗り、五一路を通って、大連ソフトウェアパーク(軟件園)がある数碼広場(ディジタル広場)までは25分位だった。(20022010年) 後に大連ハイテクゾーン(高新園区)の珪谷暇日(シリコンバレー・リゾート)に住んでいた時は、旅順南路向かいにある海外学士創業園A座にある会社へいっていたので、歩いて5分程度だった。

 

中国滞在5年目くらいにホンダの中古車を買って、おもにお客さんを借りてもらう建物への案内に利用したが、バスが便利だったのであまり通勤には使わなかった。(20102015年)

 

日本で東京~横浜を通勤

 

大学を卒業してすぐ、東京都杉並区の自宅から神奈川県横浜市にあるIBM営業所へ毎日通った。まず国鉄の中央線中野駅まで10分くらい歩いて、中央線の鈍行列車(千葉方面行き)に乗って新宿駅へ行き、同じプラットホームで山手線の渋谷まで行く。そこで東急電鉄の東横線の急行に乗り、反対方向は混んでいるが横浜方面はあまり混んでいなくて助かった。終点の横浜駅で降りると、営業所は西口広場の向かい側の日本興銀ビル(いまの横浜シェラトンホテルの所)にあって、便利だった。入社2年目くらいに車を買ったので、時々早起きをして、自宅から環状8号線へ出て羽田方面へ南下して、第3京浜自動車道へ入り、横浜市三ツ沢へ出て、しばらく普通道路を走り、会社近くに何とか駐車でき、その日は疲れているので、会社でウロウロしていたような気がする!19651967年)

 

日本で神戸市の通勤

 

入社後2年後に横浜営業所から神戸営業所へ転勤になり、灘区篠原町のアパートに住んだ。阪急電鉄の六甲駅まで5分くらい歩いて、3つ目の駅が三ノ宮で、営業所は途中センター街の入り口などを歩いて5分位なところにある興銀ビルだった。よく車でも通い、20分くらいで着き、当時オリエンタルホテルが隣りにあり、そこらあたりに路上駐車できた。お客さんが神戸製鋼だったので、神戸工場の近くにあった加古川準備室へはよく車で通い、加古川製鉄所の厚板工場がまずできた時には、神戸から山陽電鉄か車で通い、車では国道2号線を明石市か加古川まで行き海岸道路で通ったと思う。プログラムのテストで大阪事業所にも夜通った時期があり、これには阪急電鉄で梅田まで行ったり、お客さんを乗せて車で第二阪神国道(国道43号線)経由で通ったりした。19671969年)

 

日本で神奈川県藤沢市内通勤

 

日本でおもに車通勤をしたことが、6年ほどある。神奈川県藤沢市の南部にある自宅から、北部の桐原工業団地にあるIBM藤沢工場・開発研究所へ通ったもので、距離は10キロ程度だったが、途中藤沢駅・藤沢橋の混雑地帯を経て行くので、45分位かかった。そのうちに車通勤者が多くなり、会社の敷地に駐車が困難になったので、ナンバープレートによる制限が行われて、江ノ電バス・小田急江ノ島線・神奈中バスでも、時にはロードレース用自転車でも通った。この開発研究所は後に大和市に移り、自宅からは遠くて車通勤は不可能になり、小田急江ノ島線で中央林間駅まで乗り、歩いて10分位だった。私が退職してからは、この開発研究所は東京へ移転している。19791983年)

 

日本で神奈川県藤沢市~川崎市/東京都中央区への通勤

 

退職前の15年間は(台湾へ滞在した時期を除いて)、自宅のある神奈川県藤沢市からモノレールでJR大船駅に出て、東海道線で川崎市、東京都方面へ通った。川崎市への通勤は事務所が駅の近くだったので比較的に楽だったが、多少の残業をして夜8時頃帰る時に、列車が混んでいて乗れなくて、次の列車に乗る場合も多く、時には京浜東北線で横浜から根岸を通って大船へ出たこともあった。DOS/VOS/2を普及させる団体勤務の時は、東京都中央区築地の小さな事務所を借りていて、築地中央卸売市場の城内で昼食に寿司や新鮮な魚のテンプラを食べたりした。港区六本木にあった本社ビルに勤めていた時には、新橋で下りて都バス1号(新橋~渋谷)を利用したが、帰りはそのバスが新橋を通って銀座へ出る道路を通るので、新橋駅近くで大渋滞になっていた。

 それでも、中央区箱崎町のマーケティング本部に勤めていた時期が長くて、JR大船駅で東海道線に乗って終点の東京駅で下り、当時は箱崎町へ行くとバス路線があったのでおもにこれを利用し、また地下鉄も利用して丸ノ内線に乗って大手町駅で半蔵門線に乗り換えて天水宮前駅で下りてから、5分くらい歩いた。いずれにしろ、自宅から東京への通勤は1時間半から40分もかかり、その間列車内、バス内では立っているので、忍耐のいる通勤だった。(19912001年)

 

参照:

汽車の旅

 

 

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Created by Yoshi Mikami on April 1, 2015. Updated on June 4, 2018.