私は1969年に留学へ行く途中大学同級生の手引で始めてハワイへ寄って以来、オアフ島へは何回か家族で寄り、ハナウマ湾に寄ったり、ダイヤモンドヘッドへ登ったりした。また、一番西の緑あふれるカウアイ島へもいった。
3年前の春においがハワイ(中国語での解説は百度百科で「夏威夷」)の主要都市、ホノルルがあるオアフ島(西南端のKo Olina Chapel)で結婚式をやり、親類中でハワイへ出かけましたが、今度は私の娘がホノルルからまたわざわざ飛行機に乗り換えて行くモロカイ島(Molokai Is.)で結婚式をやるというので、親類とお友達に来てもらいました。新婦はフラ・ダンスを熱心にやっており、モロカイ島はフラ・ダンスの発祥の地で、新郎もサーフィンでハワイに何回も来ているからでした。私は日本出発2日前に中国から日本へ帰り、翌日はDVC(ディジタル・ビデオ・カメラ)などの買い物をして、10月終わりの時期に1週間のハワイ旅行へ出かけました。第1日目(日曜日)は一家で22:00発のNorthwest Airlines(Boeing 747-400)に乗って、同日7:50ホノルル着。さっそくタクシーでみんな(ワイフ、もう1人の娘、ワイフの妹、私)でホノルルの町へ出かけ、アラモアナ・ショッピングセンターで私は昔アメリカ滞在中によく行ったRitz Camera、Radio Shack、Sam Goody(昔のLPレコードはなくて、すべてCD & DVDに変っていた)などがどうなっているかを見て、昼食はみんなで3FのCalifornia Pizza Kitchenで遠く海岸を見ながら食べて、そこから分かれて、私はタクシーでWard CenterにあるBorders Books、ホノルル港のAloha Towerの近くにあるCompUSA(パソコン・ショップ、ソニーのDVD+RW2層記録ドライブが出ていた)へ行き、そこへ皆が集合して、ホノルル空港15:55発のIsland Airline(37人乗りDehaviland Dash 8 Series 100)に乗り、30分後にモロカイ島に到着、レンタカー(Dodge Stratus)でカウナカカイのホテル・モロカイ(Hotel Molokai、808-553-5347)へ。
第2日目はホテルの海に面したレストランで朝食を済ませたあと、10時からレイ・メイキング(首飾りにする花輪作り)をして、11時からホテルの海に面した庭で戸外結婚式。そのあとすぐレストランの一角を借り切ってルアウ(ハワイのパーティー料理)を食べて、娘が友人とフラを踊るのを見ながらの披露宴。私はDVC(ディジタル・ビデオ・カメラ)で撮影するのに忙しかった。午後の神殿遺跡ツアーが少し前の大雨で道路がふさがったためキャンセルされたので、あとはホテル近くでぶらぶらして、夕方には島の北のカラウパパ・ルックアウトまで行ってきました(ダミエン神父の救ライ・センターが見下ろせる)。第3日目は山の上のシェラトン・ロッジへ移り、ホテルのプールで泳いだりして、午後は結婚したばかりの娘も来て皆で乗馬をして、夕方はカウポア・ビーチへ行ききれいな夕日が海に沈むのをを眺めた。第4日目は午前中に、モロカイ島の東端のハラワ渓谷(Halawa Valley)で結婚式を取り仕切ったローレンスの案内で自然観察をしながらモロカイの歴史と文化を聞いて、ポリネシア人はハワイへ2度に別れて渡ってきて、1回目は5世紀のマルケサス諸島人、2回目が12世紀の好戦的なソサエティー諸島人。帰り道にエルサレム教会やダミエン教会の写真を取ったりして、飛行場へ。午後6:40発の飛行機でマウイ島へ飛んで、またレンタカーで島の中央、南のキヘイ(Kihei)にあるコンドミニウム(自炊可能)、マウイ・バニヤン(Maui Banyan)へ行き、泊まった。
第5日目はレンタカーで西マウイの西端のホノルア・ベイまで出かけ、戻ってラハイナ(Lahaina、ここは1795年にハワイを始めて統一したカメハメハ大王の時から1850年までハワイ王国の首都でした)のFront St.のロンギーズ(Longhi's)でイタリア料理を食べ、午後3時にキヘイのホテルへ戻って、太公望の星空教室に参加して、岡田典之さんが運転・案内するバンでハレアカラ山(海抜3,000m)に一気に上って、雲の中を抜けて、頂上で夕日を見て、Visitor Centerで大噴火口を見て、少し下に歩いて下り銀剣草(Silversword)を観察して、夕闇が迫るころMeade 25cm反射望遠鏡とMiyauchi 20倍双眼鏡を使って、白鳥座のアルビレオ2重星、琴座のM57惑星状星雲、さそり座のM7散開星団などさまざまな恒星・星雲・星団を観察しました。(日本の彗星観測家、木内鶴彦(Swift-Tuttle彗星の再発見者)本の「生き方は星が教えてくれる」に関する話が面白かった。)第6日目は、午前中にプリンス・クヒオ号(Prince Kuhio)で小さなモロキニ島近くに行きシュノーケリング、船の中で昼食が出て、またマウイ・プリンス・ホテルの沖合いでシュノーケリングして亀を追いかけたりして、楽しみました。午後はまたラナイへ行き、カネァリー・モールで買い物、夕食はまたFront St.に行き、海岸側のFish Co.で。最後の第7日目は、朝4時半に起きて、カフルイ空港6:50発Aloha Airlineでオアフ島ホノルルへ行き、9:40発のNorthwestで出発、東京・成田へ翌日(日曜日)の13:15に着きました。旅行の計画と予約はすべてワイフがやってくれました。ハワイへは若い時に米国留学途中で寄って以来、もう6回ほど行っているでしょうか、何回行ってもいいところですね。(2004.11.28.)
5月連休を少し延長して、娘の家族(夫と娘=私の初孫)が住むハワイ島へ11日間いってきた。旅程は
- 夕方韓国・ソウルを出て、同日の朝ホノルルに着き、夕方4時ごろハワイ島のコナ飛行場へ到着。
- 街中のコストコ、ターゲットなどで買い物、アリイ通りなどをブラブラ。夕方、娘がフラダンスを踊る夕食会へ。
- 島の南の州道をドライブして、サウス・ポイント、ヴォルケーノーズ公園(キラウェア火山)、ヒロへ行き、ヒロのKen'sで夕食後、帰りはSaddle道で星空を見て帰宅。
- 娘婿の同僚にさそわれて、島の西北隅にあるハヴィ近くの教会で礼拝。午後、娘婿の四駆でマウナケア山に登り、落日を見た。
- 町のウォルマート、ボーダーズ本屋などで買い物。午後、孫娘の子守り。
- コナ・コーヒー農場を見学、午後は深層水工場を訪問し、また孫娘の子守り。
- 家でブラブラ。午後、ワイフが到着。
- 町の図書館へ。アリイ通りで昼食、夕方はキヤベ木材でBBQ。
- フアラライ山をハイキング。午後、プルメリア摘み。夕方、コナ・ブルーワリーで夕食。
- ワイコロア・ビーチで泳ぐ。母の日記念のフラダンス大会。
- ツーステップ(Two Step)でシュノーケリング。ロイズで母の日(前日)の夕食。
- 早朝の飛行機で、ホノルルへ。昼の飛行機で、韓国・ソウルへ。
で、結構何でもある便利な島で、忙しいオアフ島と比べてゆったりとした生活だった。 (2010.05.10.)
お勧め(Recommended):娘が働いているハワイ島オーガニック・コーヒー農園
「マウンテンサンダー(Mountain Thunder Coffee Plantation)」
2月末に、4冊目の本が出版されたので解放されて、それを取りに大連から日本へ帰り、ついでに娘の家族が住むハワイ島へ10日の予定で妻といってきた。旅程は
- 真夜中に羽田飛行場を出て、13時ごろホノルル着。16時半の飛行機で30分後にはカイルア・コナ飛行場へ着き、コナの娘の家へ。孫娘には前に会っているが、去年生まれた孫には初めて会う。
- 娘の家の車寄せで、孫娘の昼食兼誕生会。娘の連合いがアワビを入手してきて、それをBBQ.
- 孫娘をプリスクールへ送って行く。帰りにKTAスーパー、郵便局などへ寄る。ボーダーズ書店はすでに閉鎖されていて、残念!この晩からラナイ(屋内のベランダ)で寝る。
- 孫をプリスクールへ送る。すし屋「しまいち」で昼食、夕食を「まつやま」で買う。午後6時に家を出て、娘の連合いが4駆でマウナケア山へ連れていってくれて(珍しく雪が降った直後だった)、スバル望遠鏡のそばで夕日が沈むのを見て、帰路は星空観測(カノープスを発見!)。
- 米国・ヨーロッパ・ニュージーランドなどの友人へ献本するための住所書き。午後は海岸の公園で、孫とその友達と中国から買っていって凧揚げ。
- 朝家のあたりをひとりで散歩。午前中中国人のツアー客が娘が勤めるコーヒーファームへ来るというので、一緒に接待したら、台湾からのお客さんで、私が台湾にいるころの話などで話し込んだ。午後ワイコロア・ビレッジの広東料理店「麒麟」で昼食、ビレッジ内を見学。
- 朝家を出て、島の東海岸のヒロへ向かう。途中、コアを植林しているところへ寄る。ヒロでは去年夏まで大連で英語教師をしていたMikeと合い、簡易レストラン「Suisan」(水産)で一緒に昼食し、ヒロ港を散歩して(以前ここはアラスカの地震でほぼ全滅)、彼の家へも寄った。コナへの帰り道に、きれいな虹を見た。
- サウス・コナの日曜青空市場へ。Sam Choy's Kai Lanaiで昼食。海岸の目貫く通りアリイ・ドライブをぶらぶらして、ウォルマートへ寄ってから帰宅。
- 近くに住む娘の友達が「Bread fruits」を持ってきてくれて、試食。飛行場にKona Brewing社のレストランができていて、そこで昼食。12時半の飛行機でホノルルへ。午後5時半の飛行機でホノルルを出発。
- 夜10時に羽田着。夜中までに何とか自宅へ到着。
真冬の訪問で、海で泳ぐ気はしなかったが、ハワイはやはり常夏の国だ。 (2013.02.26.)
ベルギー、イギリス、フランス、ドイツ、デンマークへ調査旅行 (1974)
ドイツ出張中にライン川下り(1983または1984)
イタリア・ギリシャ旅行 (1985)
英国巡礼2001を見よ。
6月末に大連から日本へ帰ったついでに、2週間連れ合いとフランス・スイス旅行をしてきた。東京からパリへ入り、10日間をフランスで過ごし、4日間をスイスのフランス語地区に滞在した。ワイフとの2人旅で、訪れたのは
1)パリ近郊
2)ブルゴーニュ地方
3)フランス・アルプス
4)スイス・アルプス
5)レマン湖畔で
で、旅行計画と予約はワイフがおもにインターネットでやってくれた。
1)パリ近郊(Paris, 中国語:巴黎)
まずエール・フランスで東京・成田を10:30に出て、飛行機はAirbus A330で、てっきり北極回りかとむかし風の考えでいたら、各座席の画面を見ていると、まずハバロフスクの上空を通り、ロシアのウラル山脈が北極海へ落ちるあたりを抜けて、ストックホルムとコペンハーゲンの真上を通り、機内で昔学生時代に習ったフランス語が通じるかどうか乗務員と「パリの国会議事堂はどこにあるか、なぜ観光名所でないか?」などとフランス語で試しているうちに(フランス語が通じた!)、パリ空港(L'Aéroport Charles de Galle)へ16:10に着いた。そこから近郊電車RER(Réseau Express Régional)B線と地下鉄Metroでボンヌ・ヌヴェル駅(Bonne Nouvelle)近くの下町風のところのホテルに3泊して、パリでは1日は地下鉄でウロウロしたあとアンヴァリッド(Les Invalides)駅から近郊電車C線に乗って(セーヌ川沿いのいい線路だった)、西郊外のVersaille-Rive Gauche駅まで行き、ヴェルサイユ宮殿(Chateau de Versailles, 凡尓賽宮)を見て、もう1日はモンパルナス駅(Gare de Montparnasse)から国鉄SNCFに乗って、やはり西郊外のシャルトルのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Chartres, 在夏尓特的聖母大教堂)を見にいった。
ヴェルサイユ宮殿は、そこで第1次大戦終了のヴェルサイユ条約が調印されたという「鏡の回廊」(Galeries des Glaces、)の改修工事が丁度終ったところで、そこからよく見える庭園もゆっくりと回り、右手前方のガーデン・レストラン「La Petite Venise」で昼食を取り、ルイ14世(Louis XIV, 路易14)がマントノン夫人のために建てたというピンクの大理石でできた大トリアノン(Grand Trianon, 大特麗亜儂)、隣りのルイ15世がポンパドゥール夫人のために建てたという小トリアノン(Petit Trianon, 小特麗亜儂)と庭園まで見にいった。シャルトルでは、大聖堂を見た後、昼食時だったので、裏のウール川(L'Eure)まで降りていって、ポルト・ギヨーム(Porte Guillaume)古門近くのクレープ専門店「Les trois lys」(クレープが40種類くらいあった)で昼食を取って過ごしたりした。
パリはずっと以前来たことがあるので、市内はほとんど見ず、ただロダン美術館(Musée Rodin, 羅丹博物館)で丁度「日本の夢Le rêve japonais」という特集をやっていて、雑誌「白樺」の人々との交流などの展示や、彫刻「カレーの市民」(Les bourgeois de Calais)の実物などを見て面白かった。そういえば国会議事堂(L'Assemblée nationale)はパリの観光名所でないなと思っていたら、近くにあったので脇を通ったが、確かに大したことがなかった。夕方パリの国鉄SNCFの北駅(Gare du nord )に行き、フランスご自慢の高速鉄道(TGV = Train à grande vitesse)の切符を自動販売機でVisaカードを使って何とか買った。(多分ストライキだったのだと思う、窓口がすべて閉まっていた。) パリのタクシーは駅とか特殊なところまたは予約でしか利用できず、移動には電車を使ったので、地下鉄と近郊電車には大分慣れたかな? パリでの夕食は、時差もあり疲れていたので、1日はホテル近くの中華店まがいの店でフランスの代表的ビール、クローネンブール(Kronenbourg)も飲んで済ませ、他の日はやはりホテル近くのブラッスリー(brasserie, 軽食堂)で食べた。
2)ブルゴーニュ地方(Bourgogne, 布尓戈尼)
翌日パリ北駅からTGVに乗り (何だ、高速鉄道といっても、在来線に高速電車を走らせているだけか!)、一路ディジョン(Dijon, 第戎)へ。 ここはむかしブルゴーニュ大公国の都で、ブルゴーニュ大公宮殿(Palais des Ducs et de L'État de Bourgogne)などを見た。名物のマスタード(moutarde)を買い(中国の山西省名物のお酢みたいなもので、フランスのマスタードはほぼディジョン製)、いよいよそこでEuropcarのレンタカーを借りて(車種はRenault Clio 1400cc、ヨーロッパの車はみなマニュアル・シフト車で30年ぶりにクラッチを踏んだ)、3泊ほどホテルを転々としながら、フランス・ワインの2大産地の1つ、ブルゴーニュ地方の中心、城塞都市のボーヌ(Beaune)でワイン博物館はスキップして、往時の貧民救済病院・オテル・デュー(L'Hôtel Dieu)を見た。このあと、ブルゴーニュ・ワインのドメーヌを訪ね歩き、シャトー・ド・ポマール(Chateau de Pommard)とかシャトー・ド・ミュルソー(Chateau de Meursault)とかに寄り、試飲をして(試飲にさせてくれたのは、パリ出身で、ボーヌのワイン醸造大学を出た若い男)、ブールカン・ブレス(Bourg-en-Bresse)の地鶏料理やその他のブルゴーニュ料理を食べたりした。ブルゴーニュ地方の牧場で見る牛はすべて白で、これが有名な肉牛、シャロレー(Charolai)牛だったのだろうか。(あとでスイスで見た牛はすべて黒色で、大きい。)
ディジョンでレンタカーを借りての初日は土曜日で、まずフラヴィニ(Flavigny)という古き良き町(村)を訪ね、、その日に泊まることになったスミュール・アン・オソワ(Semur-en-Auxois)という城塞都市の観光案内所でモンフォール(Montfort)村の古城(Chateau Montfort)で「聖ヨハネの火」(le Feu de Saint Jean)という行事が行われるという広告を見たので行ってみると、大きな城壁跡の公園に近在の人々が大勢集まり、バンドがフランス古謡風の歌を歌い、夕日がが落ちて夕闇がせまるころ、22:50に城壁の上で火を一斉にたき、ドライアイスだったかこの煙が真っ赤になる演出をして、それが終ると前面に積んだ薪に火をつけ、まるで日本の田舎のドンド焼きのような行事だった。先住民のケルト族の夏至の祭りが現代に生きているのだろうか、興味深々であった。
ブルゴーニュ地方は中世にそれまでのベネディクト派修道会に対してクリューニ修道院(Abbaye de Cluny)、続いてシトー修道院(Citeau)が改革運動をやった土地柄のせいで、そうしたロマネスク風の教会や古いローマ時代の教会(églises romanes)も多く、まずディジョン近くでフォントネ修道会(Abbaye de Fontenay、シトー派)あとを見て(小高い山の中のきれいな小川の水が豊富なところ)、その他いろいろな教会あるいは修道院あとを訪ねたりした。中性に巡礼の対象になったヴェズレー(Vézelay)の聖マドレーヌ・バジリカ聖堂(Basilique Sainte Madeleine)では日曜日のミサにも出席できて、パンとぶどう酒をいただいたが、何と、さすがは赤ワインも白ワインもおいしいブルゴーニュ地方で、ミサのワインは白ワインでした!(パンはキリストの体、ワインはキリストの血を象徴いるので、通常世界中で赤ワインを使う。) この日は夕方オタン(Autun)という、ローマ帝国のアウグスト帝が築いたころはローマと並んで勢いがあったという町(本当だろうか?)でも、聖ラザール大聖堂(Cathédrale de Saint Lazare)の夕方のミサに出席できて、ここは完全に歌ミサで、合唱隊も、パイプオルガンも、聖堂もマニフィーク!(Magnifique!)、すばらしかった。ヴェズレーからオタンへ行くにはモルヴァン山地を通り、ここは地域自然公園(Parc naturel régional du Morvan)になっていて、120kmにわたる自然遊歩道などもできている地域で、ローマの軍団と戦ったケルト民族の英雄ヴェルサンジェトリックス(Vercingétorix)の伝説もあるらしい。
クリューニ修道会の少し北に テゼ共同体 Taizé Communityがあり、私は特にそこの聖歌(賛美歌)が好きで、また日本人友人も訪れているので、そこへ寄った。第2次大戦中にのちに初代指導者になった、スイスの改革派のブラザー・ロジェ(Brother Roger)がユダヤ人などをかくまったことで始まり、のちには世界のプロテスタント/カトリックあらゆる宗派のクリスチャンが自分自身を発見するためのリトリートに集まるところになり、また毎年ヨーロッパの1つの都市を決めて1週間の集会をやっていることでも知られていて、この日はドイツから1年間ご奉仕に来ているファレナVarenaさんが案内してくれた。ブラザー・ロジェはインドのマザー・テレサ(Mother Teresa)とも親しく、共著の本なども出しているが、最近亡くなっており、近くの村の教会にお墓があった。
そこからオートルート(Autoroute、有料高速道路)を飛ばして、フランス第2の都市、リヨン(Lyon, 里昴)に2時間滞在した。むかしは絹織物が盛んだった町だそうで、北からのソーヌ川(Saône)が東のアルプスからのローヌ川(Rh?ne)へ合流してそこからアヴィニョン(Avignon, 亜維濃)・マルセーユ(Marseille, 馬賽)へ下る水の町で、日本の大阪みたいなところなのでしょうか、でも滞在が短かったのと、駐車場さがしで手間取り、サンテクジュペリ(Antoine de Saint-Exupéry)の銅像も見そこない、リヨンはよく見ていない。
3)フランス・アルプス(The French Alps, 法国阿尓卑斯山脈)
次にまたオートルートを飛ばして、美しい湖のほとりのアヌシー(Annecy, 安納西)に寄って(市内で道に迷い、大雨に降られたりした)、今度はクネクネとした国道を登って、フランス・アルプス登山の中心地、シャモニ(Chamonix, 夏木尼)へ着いた。途中 「シュトラスブール(Strasbourg)までxx km、ジュネーブ(Genève)までyy km、ミラノ(Milan)まで445 km」 などの案内標識を見て感激することしきりで、いよいよフランス・アルプス登山のメッカ、シャモニに着いた。(シャモニの手前で右へ、モンブラン・トンネルを抜けると、イタリアに出れる。)注:今回旅行ガイド「地球を歩く、フランス」(ダイヤモンド社)最新版をよく使い便利だったが、シャモニの山岳鳥瞰図だけは、上がほぼ南で(通常は北)、左下のスイス方面へ徐々に下がっている(実際は徐々に上がってゆく)ような常識はずれの構図で、おかげで私は自分の位置がよく分かるのに2日ほどかかり、これは早急に直す必要があると思った。
シャモニには3泊して、天候が全体に不順だったが、3日有効のケーブルカー/登山鉄道用マルチパスでシニア割引をがあるのを見つけて52.80ユーロで買って、1日目はモンタンヴェール(Montenvers、高度1910m)の氷河を登山電車で見に行き、そこから2時間ハイキングをしながら、シャモニまで下った。2日目は午後から晴れ間が出るという天気予報だったので、ケーブルカーでエギュイーユ・デュ・ミディ(L'Aiguille du midi、昼の針)展望台(高度3842m)まで行ってシャモニ名物のモンブラン(Mont Blanc, 4810m, 勃朗峰)を見ようとしたが、雲が出て全然だめで、いそいで下山して、向かいのブレバン(Brévent, 2525)までケーブルカーで行き、中腹のプランプラズ(Planpraz, 1999m)まで戻って、ラ・フレジェール(La Flegère, 1877m)まで2時間40分歩いて、連日のハイキング.で疲労困憊したが、この町の観光案内所で無線LANが自由に使えることが分かり、夕方また元気で街へ出た。
3日目にやっと天候が回復して雲ひとつない快晴になり、またエギュイーユ・デュ・ミディ展望台までケーブルカーで行ったら、モンブブランがバッチリも見えて、またまわり360度は雪をいただいたフランス・アルプスの世界。この日は本当に見通しがよく、遠くのマッターホルン(ドイツ語名Matterhorn, 4478m, 馬特霍恩山、案内板にはそのイタリア語名から来たらしいフランス語名Le Cervinと書いてあるでなかなか気づかない)やモンテ・ローザ(Monte Rosa)連山までがよく見えて、めずらしいことだという。そこからプラン・ドゥ・レギーユ(高度2310m)へ降りて、前々日に行ったモンタンベールまでのハイキングを4時間、きつかったけど楽しんだ。途中でナント(Nante)から来た大学の先生(地質学専攻)ご夫婦と一緒になり、フランス語で植物の名前を教えてもらったりした。
このあたりのローヌ・アルプ県(Rhône-Alpes)は、ナポレオン3世の時代にフランスにイタリアから併合された、通常サヴォア(Savoie)地方と呼ばれる所で、冬季オリンピックが開かれたグルノーブル(Grenoble)やアルベールヴィル(Albertville)もあるので、長野冬季オリンピックの時にこのあたりは長野県と姉妹県になっていると聞いていたので、大変親近感があった。夕食は3回とも、地元ワインとサヴォア料理のペラ(Pêla、土地のソーセージなどのグラタン)、ラクレット(Raclette、3角形の大きなチーズの塊の1辺を徐々にコンロで溶かし、それを少しずつ削って生ハムなどに付けて食べる)など、チーズをふんだんに使った田舎料理を楽しんだ。
4)スイス・アルプス(The Swiss Alps, 瑞士阿尓卑斯山脈)
シャモニからクネクネとした国道で、マニュアル車を急カーブは曲がる前にを3段ギアから2段ギアに落としてアクセルを踏みながら走るなど慣れない運転を続け、途中エギーユ・ルージュ(赤い峰)自然保護区(Réservé naturelle des Aiguilles rouges)を通り、国境では国籍を聞かれただけで、するりとスイスへ抜けて、まずマルティニ(Martigny)という街でオートルートに入り(ここからグラン・サン・ベルナールCol du Grand Saint Bernard峠の下のトンネルを通るとイタリア)、高速道路はタダなのでいい気で時速130kmでタコメーターを4000回転に上げて飛ばして、ツェルマット(Zermatt, 策馬特)のある谷(マッターホルンなどが眼前に見える)のもう1つ手前のアニヴィエの谷(Val d'Anniviers)にSierreから入り、グリメンツ(Grimentz)に着き、そこに3泊した。近年花を街中に飾って有名になった小村で、翌日から近くのお花畑のある小道を散歩したり(St-Luc村)、悪天候のつかぬ間の晴れ間にダン・ブランシュ(Dent Blanche白い歯、ドイツ語名Weisshorn)と呼ばれる山のモアリ氷河(Glacier de Moiry)までハイキングして、朝スーパーで買ったサンドイッチの昼食をほばりながら、ワイフとふたりで、眼前の氷河を独り占めにした。
あとで地図を見て調べたら、ここらあたりはフランス・スイス・イタリア国境の、イタリア語でペンニネ・アルプス(Pennine Alpi)といわれるところで、モンブラン〜ヴァイスホルン〜マッターホルン〜モンテローザへ続く山脈だと分かった。スイスの牧場で見る牛は首に大きな鈴を付けていて、すべて黒色で、大きかった。
グリメンツのホテルのレストランで、土曜日にスイス伝統音楽のバンドが入って、小さなアコーディオン3人、ベース1人の合計4人構成で、あとで聞いたらフランス語は話さず、ドイツ語を話す人たちだった。(ドイツ南部の有名な民謡“Drunten im Oberland, Da ist sehr gut!”を知っているか聞いたが、知らないといっていたので、ドイツとはあまり交流がないらしい。)隣りのテーブルに3組の初老の夫婦が来ていて、みなこのバンドの音楽に合わせてかわるがわるに踊りだしたて、そのうちの女性1人がグリメンツの出身で、ジュネーブからウィークエンドに来ているとのこと。「これはマズルカだ」などといっていたので、年齢的には同世代だと思うが、ジルバーやマンボ以降の我々には歯が立たなかった。
このレストランのウェイターがフランス西部から来た気のいい若者で、少し話したら、スイス・フランス語はフランスのフランス語と少し違い、70はseptante、80はhuitante、90はnonanteと簡単ないい方で(フランスでは、以前のケルト民族の習慣の名残りと聞いているが、それぞれ60+10、4x20、4x20+10と複雑な言い方をする)、また、スイス人はフランス人に比べてなかなか外国人と打ち解けない、オープンでない、といっていた。多分なかなか土地のガールフレンドができないという意味でしょう。
5)レマン湖畔で(On Lake Leman, 在莱蒙湖)
旅行最後の日は、帰りの飛行機に乗るためにスイスのジュネーブへ向かい、モントルー(Montreux)でレマン湖(Lac Léman)が見え初め、これに沿って進み、レマン湖に面したきれいなニオン(Nyon, 尼永)という、ローマ時代に建設された町に寄って古城やローマ時代の遺跡を見た。(大連に帰ってから同僚のスイス人がニオン出身と分かり、先週はモントルー音楽祭の最中で、今週末にニオン音楽祭もあるので帰郷するといっていた。)そろそろ車の運転に飽きてきて、レンタカーを早目に返すことにしたが、ジュネーブ空港は半分スイス・半分フランス領にあり、そのフランス領で返さねば料金が高くなるので、まず一旦空港のレンタカー返却所(スイス側)へ寄って聞いて、そこを出てローザンヌ(Lausannne)方面へ戻り、フェルネイFerneyへの道路標識に従って行き、フランス国境を越えたところのスタンドでガソリンタンクを満タンにして、そこですぐ左へ曲がるなど、苦労してやっと返却場所を探し当てた。走行距離は合計140kmで、10日間借りたから、1日平均140km走ったことになる。
空港で3時間ほど時間があったので、ジュネーブ(Genève, 日内瓦)の町を見ようと思い、また空港のスイス側へ行き、スイス連邦鉄道SBB CFF FFS(CFF = Chemins de Fer Fédéraux Suisses)で急いでコルナヴァン駅(Gare de Cornavin)に行き、そこから歩いて、ローヌ川の橋を渡って、レマン湖畔の有名な花時計を見て、旧市街のサン・ピエール聖堂(Cathédrale Saint-Pierre)などを見た。この聖堂は、スコットランド出身のジョン・ノックス(John Knox)もジュネーブの英語会衆の担当牧師だった、プロテスタント改革派の総本山の1つ。駅への帰りの路面電車で若い男に料金の支払い方法を聞いたら(停留所の機械で買う自己申告制)、イタリア語地区出身の弁護士さんで、スイスの多国籍企業のコンサルティングはほぼ英語でやる、ガールフレンドと一緒に住んでいるが結婚はしていないなど、いろいろ英語でお話しができて面白かった。
またすぐ急いで電車でジュネーブ飛行場へ戻り、空港駅(空港のスイス側)の端にあるミグロス(Migros)というスーパーでチーズ・チョコレート・お酒などあらゆる買い物を安くできて、また空港のフランス側へ戻り、エール・フランス国内便20:30出発でパリへ行き、パリからの国際便は22:30出発で、梅雨真っ只中の東京・成田へは翌日18:00に着いた。日本、続いて2日後に中国・大連へ帰って、1週間は時差ぼけで午後1〜3時ごろ眠くて困った。フランスのドライブとハイキングはなななか面白かったので、また学生時代に習ったフランス語がうまく通じることが分かり、来年あたりフランスのトゥレーヌ(Toureine)地方(ロワール川La Loire沿いの「フランスの庭Jardin de France」)〜ボルドー地方(Bordeau)〜ピレネー山脈〜スペインのバスク地方などへ行ってみたい。
(2007.07.11.)
9月末から10日間、フランス西南部へ旅行する機会があり、もっとも最近フランス化されたカタール地方、もっとも最近スペインからフランスへ併合したカタロン地方、トゥールーズのエアバス製造地を見て、ピレネー山脈の山にも登ってきた。まず、第1日目は、成田12:00発のエール・フランスで、パリに17:30に着き、すぐ18:30発の飛行機で飛んで、19:50にトゥールーズ(Toulouse)に着いて、すぐEuropcarを借りて、その晩は空港近くのホテルに泊まった。2日目は、朝MoissacのEglise abbatiale Saimt-Pierreの回廊(Cloitre)を見て、Cahorの町でサンドイッチを食べて、午後は崖の上の町Lapopieに寄り、夕方Figeacの町の郊外のLe BourgにあるMas de la FeuilleというCharlesとSugakoが経営する田舎屋に(牛小屋を改造したらしい)、その日から3日間泊まった。3日目は、朝少し遅く出発して、Montigniacでラスコー洞窟(Lascaux II)の入場券を手に入れて、そこで昼食を食べ、町もチョット見て、14:30から郊外のラスコー洞窟英語ツアーに参加して、壁画を見た。帰りは18:00にRocamadourという岩の上に張り付いたような町に寄り、19:30に田舎屋に帰った。第4日目は、午前中にCereという町のそばの山の上にあるJean Lurcaの美術館を見て、断崖の下のAutoireという田舎町で昼食をして、そこから河をさかのぼり滝を見て、Loubressacという村でSt Jean-Baptisteを見て、早目に田舎屋へ帰り、近くの泉へ水汲みにいった。
5日目は、いよいよConquesという山間のサン・ジャックへの巡礼路に当たる教会へ寄り、そこでランチを食べ、午後St. Leonsにある昆虫学者ジャン・アンリ・ファーブルの生家へ寄った。彼は日本では子供の物語にもなっているが、フランスでは昆虫学者とだけ知られていて、子供向けの本は出ていない。また、ファーブルの子供時代はこのあたりはラングドック語(Langue d'Oc)という言葉が使われていて、彼の父はフランス語もできたので、法的な手続きなどの簡単な翻訳の仕事で生計を立てていたというし、ファーブル自身も沢山のラングドック語の詩も書いている。そこから、ミヨー橋(Viaduc de Millau)と呼ばれる、高速道路の大橋(高さ343m)を見て、超えて、この晩はこれはまた田舎のAuberge Val Mourezeに泊まった。6日目は、日曜日にあたり、10;00にSt Gilhelm le Desertへ着き、11:00からそこでミサに参加、聖書は旧約のエゼキエル、新訳の手紙はフィリピ、福音書はマタイ。午後、カルカッソンヌ(Carcasonne)でHotel Pont Neufに泊まる。夜、古城めぐり、Pont Vieuxからも見る。
7日目は、スーパーGeantで買い物、電源アダプターとのこぎりを買う。Limoux-Quillan-Axat、Gorges de St. Georges、Rockfortを経て、道端で昼食、Col de Jau峠(1506m)を経て、CastelのホテルLe Molliereへ到着。夕方L'Abaye Saint-Martin du Canigouへ登り、ツアー(5ユーロ)に参加して、下山。夕食はVernet-Les-BainsのLe Colibri Bar-Brasserie-Pubで食べたが、まずかった。8日目は、8:20にピックアップしてもらい、8:40から25?でピレネー山脈のカニグー山(Pic du Canigou、2785m)へのツアーで、オープン四駆(ポルトガル製のumm)で出発し、10:15にシャレー(Chalet des cortatets、2200m)へ到着し、10:30にここから登山開始し、12:10最後の登り手前、13:000登頂&昼食。13:30に下山開始し、13:50にコルへ、14:50にChaletへ戻り、15:20には四駆で下山し、17:00にはホテルでビール。夕食。9日目は、9:20に出発、9:20にAbaye de Cuixaへ、12:00にMont-Louis(Vaubanが作った旅行地の一つ)で買い物をして、外で昼食。 15:30にCol de Paiheres峠(2001m) へ、18:00にトゥールーズの南郊外のAuteriveにあるLa Maison Pierretteで宿泊。10日目は、9:30に出発、10:45にトゥールーズ市内のPont St. Pierreの脇のガロンヌ川沿いに駐車して、トゥールーズ大学I(UT1: 社会科学)を通ってキャピトル広場で旧市庁舎(Mairie)、サン・セルナン聖堂(Basilique de St. Sernin)、13:00に昼食後、15:15にシテ・ド・レスパス宇宙技術テーマパーク(Cite de l'Espace)へ寄って、さらにスーパーChampionにも寄り、17:30にエアバス(Airbus)の製造工場へ。18:15 Europcarへ車を返却して(合計1516km/9日=毎日170km)、エール・フランス20:45発で、パリ到着。 23:30にパリ発、B777-300 (325 seats)で、ウラル山脈の中程、ブラーツク・アンガラ川、バイカル湖の上を通り、翌日東京へ到着。(2008.10.03)
2011年に中国に滞在中に五一休暇を延長して、スペインの西南にあるアンダルシア地方へワイフと2人で旅行してきた。私はスペイン旅行が初めてであるが(ワイフはずっと以前イビザ島で遊んだことがある)、首都マドリードでプラド美術館(普拉多博物?)や第二の大都市バルセロナでガウディ設計のサグラダ・ファミリア教会を見るよりは、スペインのこの西南部の歴史ある地方を選んで13泊(1泊は飛行機で)の旅だった。
その歴史というのは非常に興味深く、そこのイベリア人の土地は紀元前3世紀ごろからローマ帝国の最西端となりローマ文化がもたらされ、紀元後415年には西ゴート王国になり、711からはイスラム教徒が北アフリカから侵入して、後ウマイヤ朝下で中世ヨーロッパの暗黒時代に大いに繁栄した文化があった。1469年に「カトリック両王」(Los Reyes Catolicos、the Catholic Monarchs)と呼ばれるイサベル女王とフェルナンド王子が結婚してスペイン統一とレコンキスタ(キリスト教徒によるスペイン奪還)が1492年のグラナダ陥落で最高潮に達して、この地方からその前年にコロンブスが、1519年にマゼランがこの地方から大航海に出帆した。1588年にこの地方を出港した無敵艦隊は英国に敗れ、スペインの栄光は終るが、この地方を中心としてアメリカへの移民が行われて、いま中南米のスペイン語圏ではマドリードあたりの標準語でなくてこの地方の方言が中南米で話されている。また、スペインとポルトガルが日本へキリスト教布教を始めた16・17世紀には、遣欧少年使節団と支倉常長がこのアンダルシア地方も訪れている。
我々の旅行は日本からパリへ行き(最近日本からスペイン直行便がなくなったので)、東京からマラガ(Malaga)へ飛んだ。ここは地中海のコスラ・デル・ソル(Costa del Sol=太陽の海岸)の中心になる国際都市で、ローマ時代の城塞をアラビア風に変えた遺跡とピカソ美術館を見た。ここでレンタカーを借りて、シエラネヴァダ山脈(Sierra Nevada)を越えてグラナダ(Granada)へ行き(アルハンブラ宮殿=the Alhambra Palace、カトリック両王が眠る礼拝堂)、そのあとはグアダルキビル川(Guadalquivir River)に沿ってコルドバ(Cordoba、巨大なイスラム寺院を改装したキリスト教大聖堂、花の祭り)、カルモナ(Carmona、我々が2番目にいいと思ったパラド−ル)、セビーリヤ(Seville、やはりイスラム寺院を改装した世界で3番目に大きなキリスト教大聖堂、日曜日のミサ、コロンブスの墓、フラメンコ舞踊)、アルコス(Arcos de la Frontera、最高のパラドール)、ヘレス(Jerez de la Frontera、シェリー酒 Sherry wine、馬祭り)、グアダルキビル川の大西洋への河口の湿地帯であるドニャーナ国立公園(Donana National Park)へと回って、またマラガに戻って、総計900キロをドライブした。
ホテルはパラドール(Parador)と呼ばれる、おもに古城を改造した半官半民ホテルに泊ったので、大変よかった。この地方に工業はあまりなく、観光業と農業が盛んで、なだらかな丘の上までオリーブ林があり、秋まき小麦がそろそろ収穫時期を迎えていて(オレンジは少し離れたバレンシア州で盛んらしい)、様々なワインと、5月なのに午後の最高温度が35℃にもなったので土地のクルスカンポ・ビール(Cruzcampo)は特によかった。スペイン人はパンにバターでなくてオリーブ油を付けて食べる習慣で、フルーツは食べるが野菜はほとんど食べない。いくつか見逃したものもあり、コルドバではローマ橋のそばにある『ドン・キホーテ』(Don Quixote)に出てくる旅籠屋「ポトロ」(Potro)を見過ごした。また、あと2・3日あればジブラルタル海峡を渡って北アフリカのモロッコに寄れたが、これもできなかった。 (2011.05.19.)
2012年の初秋、オーストリア・クロアチア旅行へワイフと行ってきた。2週間強の全体行程は
- 朝11:15東京成田発のオーストリア航空で出発、約11時間でウィーン(Vienna)に到着。空港から市内へのバスで財布を落とすハプニングがあったが、幸い運転手が拾ってくれて、その日に入手。
- ウィーン王宮、街歩きをして、夕方は学友協会(Musikverein)でモーツァルト音楽会。
- ウィーンで、シェーンブルン宮殿、ベルヴェデール美術館を見学。
- ウィーンで、国連シティー(UNO City)を見学して、ドナウ川をちらりと見た。日曜ミサ(ウィーン少年合唱団付き)、スペイン乗馬学校へ行き、郊外のベートーベンの小道、ワインの里を散歩。
- ウィーンから列車で、アルプス山脈のセメリング峠を越えて、オーストリア第3の都市・グラーツ(Graz)へ移動。中心広場とシュロスベルグ(城山)を見て歩く。
- グラーツでエッゲンベルグ城(Eggenberg Castle)、中央教会、ムーア川(the Mur River)。
- 早朝06:08グラーツ発の列車に乗り、ハンガリーに一時入り、13:30にクロアチアのザグレブへ到着。イェラチッチ広場、Kaptol地域・Gornij Grad地域などを見た。
- レンタカーを借りて、高速道路A1と国道1号線を経て、プリトヴィチェ湖群国立公園(Plitvice Lakes National Park)へ到着。順路Eに沿って園内を散歩。
- プリトヴィチェ国立公園内を、順路Fに沿って、はじめ船で渡り、あとは散歩、午後は順路Fの変形でさらに散歩。
- プリトヴィチェ公園を出発して、アドリア海に面したシベニク(Sibenik)に寄り、スプリット(Split)へ到着。
- スプリットで、アドリア海のフヴァル島(Hvar Island)へ日帰り観光。
- スプリットで、隣町・マカルスク(Makarsk)にあるビオコヴォ山脈(Biokovo Mountains)に行き、ヴォシャツ山(Vosac、標高1422m)へ登山。山頂からはアドリア海と諸島のすばらしい景色。
- スプリットをレンタカーで出発して、一時ボスニア・ヘルツェゴヴィナを通過して、夕方ドブロヴニク(Dubrovnik)へ到着。
- ドブロヴニクで、城壁の上を周遊。ユダヤ教博物館を見学して、街の背後のスルジ山(Srd)へケーブルカーで登る。
- ドブロブニクのホテルの近くの半島を早朝散歩して、飛行機でウィーンに移動。夕方ホイリゲ(Heurige、音楽付きで新酒ワインを飲ましてくれるところ)へ行った。
- ウィーンの街を早朝散歩。オーストリア航空でウィーン出発。
- 早朝、東京成田へ到着した。
最近中国と日本の小さな島をめぐる争いが気がかりで、この旅行の間もその関係のニュースを毎日インターネットで見ていた。クロアチアは1991〜95年にかけて独立戦争があり、コソボの戦いだとか、ドブロヴニクの攻防戦を我々もニュースで見て、1998年にはやっと勝利を経て、私は少なくとも3人のクロアチア人からその経緯を聞かせれた。言語的にもこんな近しいクロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェコヴィナなどが、どうして宗教や政治的な独裁者によってこうした争いがあるのか、理解に苦しむ。また、ここから遠く東アジアを考えると、文化的にも近しい中国・日本・朝鮮がどうしてこんなにも争うのか、不思議でならない気がした。民族を中心に国家を作り、まず国家の利益を考えて、人類全体の利益は二の次にしてしまうという現代化社会は早く脱皮しないといけないとつくづく思った。 (2012.10.13.)
私は学生時代にロシア語も勉強して、留学しようかなと思っていたが、結局社会人になってからアメリカへ留学して、ずっとアメリカとコンピューター関係の仕事をしてきたので、ロシアへ行く機会がなく、ロシアがなぞの国だった。今回初めてひとりでロシアへいってきた。全体で14日間で、おもにサンクトペテルブルグ(SP)にいて、モスクワへも3日間行き、旅程は次のようなものだった。
- 大連〜北京〜サンクトペテルブルグ
- ネフスキー通り、青銅の騎士、音楽会
- ロシア語授業、ペテロパヴロフスク要塞
- 郊外のツァールスコエ・セロー
- 小博物館3つ
- エルミタージュ博物館
- 怠惰な土曜日
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- ロシア建国時の都・ノヴゴロドへ日帰り旅行
- 郊外のペテルゴーフ、夜行でモスクワへ
- 赤の広場、クレムリン、雀の丘(モスクワ大学)
- セルギーエフ・ポーエズド(有名な修道院がある)へ日帰り旅行
- トレチャコフ美術館、汽車でSPへ帰る
- 仕事がらみの訪問2つ(ロシア・ソフトウェア協会など)
- 市内で買い物、バレー「白鳥の湖」
- 日曜礼拝、SP〜北京〜大連
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泊まったのは日本人友人の友人の紹介でロシア人家庭で、モスクワもそこの友人宅へ止めてもらった。これでロシアのなぞもだいぶ解けた気がする。いつか、コーカサス山脈、バイカル湖方などへも行ってみたい。(2009.07.06.) 旅行日記をダウンロード(3MB) (2009.07.22.)
2009年10月1日の休みに、中国・北京の旅行社のツアーへ大連から参加して、南アフリカへ行く機会があっら。旅程は
- 大連〜北京〜香港、深夜に香港〜南アフリカのヨハネスブルグ
- 早朝にヨハネスブルグ着、ゴールドリーフ・シティー(金鉱跡のテーマパーク)、プレトリアで宝石商の店、フォールトレッカー開拓者記念館、プレトリア市役所広場、総督府
- ピラネスバーグ国立公園、サンシティー・リゾートホテル
- ダイヤモンド・サプライ・カンパニー、ヨハネスバーグ空港〜ケープタウン空港
- ケープタウンでシグナル・ヒル、グルート・コンスタンチア(ワイナリー)、市内でお土産屋
- 喜望峰、ホウト湾(Hout Bay)でオットセイ見学、ボウルダーズ(Boulders)でケープ・ペンギンも見学
- 早朝にケープタウン空港〜ヨハネスブルグ空港、深夜に香港へ向け出発
- 早朝に香港へ到着、香港〜北京、北京〜夕方に大連
4日目のあさ、ヨハネスブルグでホテルを出て近くで写真を撮ろうとしたら、ホテルの人に「カメラを持って出るのは危ないから置いて行きなさい。」とわれて、カメラをホテルに置いて、散歩だけしてきたので、少し危険な国と感じた。 (2009.10.09.)
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5月に日本の旅行会社のツアー「西天山山脈のフラワーハイキングとシルクロードのサマルカンドの旅」にワイフと参加した。西天山山脈を眺望してフラワーハイキング、パミール高原でテントに泊まり、シルクロードの古都・サマルカンドへ行く8日間で、25人(うち男性7人、女性18人、夫婦4組)のグループで、すべて特別バスで移動した。
- 10:25発のウズベキスタン航空で成田を発ち、ソウル・北京・包頭の上空を経由して、ゴビ砂漠・天山山脈・タクラマカン砂漠を見下ろしながら9時間で、ウズベキスタンの首都・タシュケントへ到着。市内のホテルで宿泊。
- タシュケントの北西郊外へ向かい、チャルヴァク湖に流れ込むプスケム川の支流のアクサルサイ川の渓谷でハイキング。チャルヴァク湖畔のホテルで宿泊。
- 西天山山脈のチムガン山の谷でトレッキングし、チューリップの原種を探し、チムガン山の前山でリフトに乗る。タシュケントのホテルへ戻る。
- タシュケントの南西にあるパミール高原のトルキスタン山脈方面へ行き、山麓のザーミン国立公園でトレッキングして、テントに宿泊。
- ザーミン国立公園を出て、サマルカンドへ移動して、ホテルへ。伝統音楽付きの夕食。
- サマルカンド観光。ビビハニム・モスク、ウルグベク天文台跡、アフラシャブの丘、アフラシャブ博物館(ソグド人の文物)、チムール廟、レギスタン広場、シャーヒズィンダ廟群。
- サマルカンドを出て、タシュケントへ到着。市内観光で、日本人墓地、ウズベキスタン国立歴史博物館、ナヴォイ・オペラ劇場、チムール広場。21:05発の飛行機は1時間半遅れて出発して、8時間半かかって、
- 成田へ10:00に到着。
お土産はチムガン山から下りた所で買った蜂蜜、国立公園へ向かう道端で買った小さな丸い塩辛いチーズ(Kurtと呼ぶ)、サマルカンドで買った干し果物類、大きなベーグル風のナンは3つ。(2013.05.24.)
ニュージーランドでハイキング、南天の星空、イルカと遊ぶ(2008)
中国の旧正月は家族の集まりなので、中国に家族のない私は2週間の休暇を取って日本へ帰り、そこから連れ合いとニュージーランド10日のきままな旅行にいってきた。2年前にオーストラリアのタスマニア島へいって、よかったので、似たような地域を選んだ。山でハイキング、夜は南天の星空を見て、あとは海でイルカと遊んできた。NZの緯度は北半球でいうとロシアのサハリン島くらいかなと思ったが、日本の東京から北海道の緯度くらいで、南極海流の影響か、山地をおもにめぐったせいか、気候は夏でも比較的寒かった。地殻的には、ニュージーランドはオーストラリ・プレートに東から太平洋プレートがぶつかってできた島で、地震も適当にあり、日本より小さな島国に400万人しか住んでいない。第2の都会、クライストチャーチの朝のラッシュアワーにも、車はスイスイ流れていた。
第1日目はまず、夕方東京からAir New Zealandで出発し、第2日目の朝、NZ北島にある首都オークランドへ着いてた。ここはあまり面白くないと聞いていたので、スキップ。すぐ南島のほぼ南端、クイーンズタウン(Queenstown)へ飛んで、そこでレンタカーを借りて、まずWanakaという町に行き、泊まった。ここはLake Wanakaのほとりで、湖の向こう側の山に氷河が見える、以前カナダのロッキー山脈で見たLake Louiseと同じような風景。夜ホテルで、窓の外の夜空にオリオン座が見えたので、外へ出て、持ち合わせの簡単な星座版を参照して、南天の星空を楽しんだ。北の空にオリオン座が逆さに見えて、その右(東)に大犬座のシリウス(全天で最も明るい星)があり、そのあたりから南の地平線まで天の川が流れていて、頭上にりゅうこつ座のカノープス(全天で2番目に明るい星)がある。カノープスは中国では南の地平線上にかすかに見えて、赤い色に見えるせいだと思う、「老人寿星」あるいは「南極老人星」と呼ばれて、幸運をもたらす星。私は以前から「カノープス」(Canopus)をハンドル・ネームに使っているので、親しみがある。また、天の川にかかる南十字星(座)が簡単に見つけられる。天の川の南極と反対側に、エリダヌス座のアケルナル(Achernar)があり、多少曇りだったので、大マジェラン星雲・小マジェラン星雲は、見えたような気もするし、見えなかったかも。(ずっと以前オーストラリアのシドニーへ1度出張したことがあり、また2年前にタスマニア島へいったが、どうした訳か、これまで南天の星空を見る機会にめぐまれなかった。)
第3日目は、ここで山へハイキングして、Rob Roy Glacierという氷河を見にいった。途中牧場を通り、まあ、どこでも羊をみながらのハイキング。第4日目は近くの山へ登り、そこから4時間ほどドライブして、南島の南アルプス山脈の最高峰、マオリ語でアオラキAoraki山(英語名でMount Cook)のふもとの、Aoraki Alpine VillageでThe Hermitageホテルに泊まった。この山は富士山より少し低いが、夏でも雪が残っていて、登山は特殊な器具と経験が要り、夏は誰でも上れる富士山とは大分違う。ホテルに着いて、周りを散歩して、写真を撮ったりした。Aoraki Alpine Villageのホテルにプラネタリウムがあり(投影機は日本製ではなくて、アメリカのSkyScan社製)、そこで夜10時から$20で「アオラキの夜空」と「ブラック・ホール」を見て、南十字星座のすぐ下のケンタウルス座のαとβを結んで、その中間から垂直に直線引き、南十字座の2つの星(αとγ)を結ぶ線の延長線と交わったところが南極であることを、学んだ。
第5日、天候には小雨が降る日で、近くを散歩して、午後はさらに移動して、Tecapoといって、Lake Tecapoのほとりに2泊した。Lake Tecapoの周りの山、Mount Johnをハイキングして、これまた写真を撮ったりして、ここには1936年に立てられた石造りの教会、Church of the Good Shepherd(Anglican Church)があり、日曜の夕方礼拝に出たが、祭壇のところが窓になっていて、向こう側に湖が見えるすばらしいところ。第7日には、NZ第2の都会、クライストチャーチへ行き、街中で昼食、ぶらぶら歩いてIBMビルを見つけ(私とNZの関係は唯一、1980年代IBM JXの時代にクライストチャーチのIBMの女性にボランティア精神でパーツを届けた)、おおきな教会も見て、The Chateau on the Parkというホテルに泊まった。第8日は、国道1号線をさらに北へ向かい(ワイナリー地帯があり、また峠の途中で往復2車線の道路が橋のところで急に往復1車線になった!)、カイコウラ(Kaikoura)という海岸に行き、太平洋にいるイルカと遊んだ。Kaikouraには、前に述べた太平洋プレートに大きな海溝があり、これが陸にぶつかるところなので、海溝に沿ってイルカや鯨がエサを求めてきて、海溝が急に陸にぶつかるので、ここらあたりに浮かび上がってくるらしい。NZに滞在中、丁度NZテレビで、日本の和歌山県太市町の湾にイルカを追い込んで殺す場面を、自然愛好家が撮影して、こうした殺戮は許せないと主張していた。欧米人はギリシャの叙事詩「オデッセイ」の中で、海をさまようオデッセイがイルカに助けられて、陸に運ばれるエピソードのせいか、イルカは大好きだ。私の会社の欧米人も、イルカは利口だ、それを殺すなんて...ということで、議論は噛み合わない。ここではThe Old Conventという以前2人のシスターが学校を開いていたところに泊まり、夜は珍しく晴天になり、牧場の中のホテルだったせいもあり、もうこぼれるような星空を、1時間ほど楽しんだ。天の川の南極と反対側に、エリダヌス座のアケルナル(Achernar)があり、大マジェラン星雲、小マジェラン星雲もよく見えた。私は高校時代からの夢がかなって、大変満足!(「石炭袋」(Coal Sack)と呼ばれる銀河の割れ目は、見れなかった。)
第9日には、クライストチャーチへ山側の「Inland Scenic Route」と呼ばれる道路で移動して、クライストチャーチの少し北で1号線に入り、Waiparaでワイナリー2つ(The Mud HouseとPegasus Bay)に寄り、テイスティングをして、クライストチャーチの飛行場でレンタカーを返して、オークランドへ飛行機で飛び、飛行場のそばのThe Grand Chancellor Airportに泊まり、翌日(第10日目に)日本へ帰った。ちなみに、レンタカーはHertzでFord Focusを借り(宣伝ではToyota Corollaと書いてあった)、全体の走行距離は1,250kmだった。NZでは車は左の世界だが、長らく中国で暮らしたので、2回ほど少し右側を走行した。ただし、車専用高速道路もない国で、道路は大体往復2車線だが、橋のところで1車線になったり、小さな川や水たまりに「Ford !」(歩いて渡れる水溜り)と書いてあり、ジャブジャブと渡るという、おおらかな世界なので、心配はいらない。
NZの食べ物はイギリスの植民地だったので、たいしたものはなかった。その代わりワインがよくて、毎晩魚や牛肉や羊肉を食べて、2人でワインを1瓶空けた。出発の日が灰の水曜日で、断食の四旬節に入っていたが、神様かろお目こぼしを願った。NZいうと、南島の西岸にMilford Soundというところがあり、ハイキングファンには有名なところがあり、大きなフィヨルドの周りの山へ登るのだが、今度の旅行のプランを立ててくれた連れ合いが適当なホテルの予約ができなかったそうで、残念ながら行けなかった。また、大連へ来てニュージーランド生まれの友人が、山登りが好きで、いまはオーストラリアのケアンズあたりに家があるが、NZはマオリ原住民とその後の白人を中心とする移民との人種争いがあり、将来はない、というようなことをいっていた。南島ではマオリ人はほとんどみかけなかったが、オークランドの飛行場のホテルに泊まったら、マオリ族の人々が多く働いていて、旅行者にはこうした争いは分からなかった。
また、中国の方々は結構NZへ留学にいっていて、私の同僚のひとりもオークランドの大学院で学んできた。彼はオークランドのスカイタワーの近くに住んでいたので、いったら写真を撮ってきてといわれたが、いかんせん、オークランドの町には行かなかった。もう1人の同僚は、お兄さんが留学後16年間も働いていたそうで、NZは国同士は知らないが、中国人には個人的に密接な関係にある。NZは自然が美しいところだが、文化と歴史がない。私も文明人のはしくれなので、やはり文化と歴史を学びながら旅をするのができないのは、さびしい。トレッキングで有名なMilford Soundに行けなかったのも多少残念で、首都オークランドも寄ってみればよかったと、いまは反省している。(2008.02.15.)
中国大連に滞在中に、日本のお正月休みを少し延長して、オーストラリア大陸の南東に浮かぶタスマニア島へ連れ合いと行ってきました。東京成田からメルボルンへ飛び、そこからタスマニアのホバートへ飛び、そこからレンタカーで1週間島中を回り、海岸で散歩したり、海がきれいに見える山に登ったり、最高峰(Cradle Mountain)へ登ったりして、タスマニア島の主に自然を満喫しました。(全体の計画と、飛行機・ホテル・レンタカーなどの予約はワイフがインターネットでやってくれました。タスマニアは北海道より少し小さく、オーストラリアは全体的に感想しているが、唯一十分な雨が降り、すばらしい山と湖と森林があり、シドニーが東京、メルボルンが仙台に相当すると思うと理解しやすい。)
旅行の詳細を以下に書くと:第1日に17:33にQuantas 180で東京成田を出発、第2日の08:40にメルボルンへ到着、入国審査で長い列に並び(審査官が9時に出勤するため、徐々に審査官が増えるのを観察し、もう2度とオーストラリアには来ないぞと思った)、Jetstar Airways 12:40に乗り、13:50にタスマニア島南部にある最大都市、ホバート(Hobart)の空港へ到着。すぐBudgetレンタカーで市内のホテル(Hotel Grand Chancellor、目の前がHobartの港)へ行き、近くのビジターセンター(Visitor Center)へ行き、ワイフは翌日のツアーに申し込み、終ってさらに近くのサラマンカ通り(Salamanka St.)の青空市場に行ったがほぼ終っていたので、レンタカーで町を見下ろすウェリントン山(Mt. Wellington)に登り、快晴の日でもあり、しばし絵のようなホバートの町の眺めを楽しんて、夕食はホテル前のタスマニア港のビクトリア・ドック(Victoria Dock)というよっとハーバー脇の寿司屋「折り鶴」で。3日目は日曜日なので、私はホバートのすぐ南のKingstonという町の聖公会教会(St. Clement's Anglican Church)へ前日飛行機で隣りに座っていた人(Nik)に案内してもらい行き、9:30の礼拝に出て、終って彼の新しい教会にも行き、それからその教会のリーダー(Gary)の家でのランチパーティーに参加し、中国の教会の話もしてあげて、日本語を勉強している学生に持参の日英2か国語聖書を贈り、午後ホテルに帰ってワイフと合流し、夕方は電話帳で見つけたサラマンカ通りのギリシャ料理店(Mezethes)で夕食(オーストラリアには英国人以外にイタリア・ギリシャからも多くの人が移住し、イタリア料理・ギリシャ料理が本場並みにおいしい)、そのあと街中の聖公会大聖堂(St. David's Cathedral)に行き、内部の石壁が当時の囚人により手斧で削って建設された模様も見た。4日目は島の東海岸へ移動し、途中リッチモンド牢獄(Richmond Gaol (Jail))というタスマニア島初めての囚人牢獄(1825年)を見て、Triabunna、Bolton Beachなどに寄って、スワンシー(Swansea)のホテル(Freycinet Waters)に到着し、眼前の海の対岸にフレシネ(Freicinet)半島が見えるのを確認。近くのNine Mile Beachを見にいって、夕食はオーストラリア・ワインでステーキを食べた。
5日目は、フレシネ国立公園(Freycinet National Park)に行き、お店でランチを買って、タスマニア島自然探索のハイライトの1つ、ワイングラス・ベイ見晴台(Wineglass Bay Lookout)に登り(すばらしい景色のワイングラス・ベイ Wineglass Bayが見下ろせる)、ワイングラス・ベイに下り、そこでランチを食べ、ハイキング(オーストラリアではブッシュ・ウォーキング Bush Walking と呼ぶ)を続け、海岸を歩いた。そこを出て、東海岸をさらに北上、ビチェノ(Bicheno)のホテル(Diamond Island)へ。夕食にまたステーキを食べて、このホテルは敷地内の海岸で、夕方暗くなって(21:00ごろから)小さなペンギンが海から上がり、海岸の穴の巣に来るのを観察(ツアー料金1人$16)。6日目は前日深夜に大雨が降り、その続きで小雨になり、タスマニアの北部にある第2の町、 ローンセストン(Lawnceston)ヘ寄り、街中でランチを食べて、さらに東にあるスコッツデール(Scottsdale)を通り、NabowlaにあるBridgestowe Estate Lavender Farmにラベンダーの花を見にいって(小雨でいい写真が撮れなかった)、またローンセストンに戻り、そこのColesというスーパーで翌日以降の自炊用の材料を買い込んで、いよいよタスマニア島自然探索の旅の最大ハイライト、クレードル・マウンテン(Cradle Mountain)国立公園へ向かい、夕方国立公園の入り口のすぐ外にある山荘(Cradle Mountain Wilderness Village)へ到着。夕食は自炊で、食事後ダヴ湖(Dove Lake)へ動物を見に行ったが、不発。
6日目は朝うす曇り、のち快晴、ビジターセンターへ寄っていい登山道を聞き、Ronny Brookで駐車、夢のようなクレーター湖(Crater Lake、標高1035m)へ登り、さらにMarions Lookout(1223m)を経て、高原の湿地帯を歩き、Kitchen Hutという所でしばし休んでからクレードル・マウンテン登山を開始(11:30)、眼前の山を右回りで登り、途中から岩を這いつくばる登山になり、岩が切り立っている所で昼食(12:45)、ワイフはそこに残り、私は頑張って頂上(1545m)に達し(14:00)、しばし休んでから下山開始、Kitchen Hutの手前でワイフと合流し、急に風邪が出て空があやしくなったので、Little Horn(クレードル・マウンテンに向かって1番左の峰)のふもとで通常北へ尾根伝いに行くのを止め、東へLake Wilksへ下りて、さらにダヴ湖の南端へ下りて(16:20)、湖の西側を北へ向かい、小雨の中をやっとダヴ湖の北端の駐車場に達し(17:20)、バスでRonny Brookの駐車場へ行き、そこから山荘へ帰った(18:10)。少し無理な行程でした。夕食後、私はVisitor CenterでMacquarie Island(オーストラリアの南極海の島で、気象観測所がある)の自然に関する写真のプレゼンテーションがあったので、参加した。第7日目は朝は曇り、のち夜まで快晴、前日の反省でゆっくりとブシュ・ウォーキングをすることにして、Ronny Brookで駐車したあと、Wombat Peakへゆっくりと登り、途中私らより5歳くらい上のご夫婦が山と渓谷社の「世界の登山50選」の本を見てスイス・ニュージーランドの山などを登った話などをしてくれて、分かれて私らはCradle Lakeへ下りて、またダヴ湖へ出て、クレードル山の景色を十分楽しんで、午後早くホテルへ戻った。少し休んでから、ビジターセンター近くのEnchanted Walkという小川沿いの散歩をして(Echidnaという大きなねずみを見た)、そのあとKing Billy Trackという小山の散歩もして(途中、King Billy Pineという巨大な松の木の林を見た)、ワラビーが出てきたので写真を撮ったりして、夕食後またEnchanted Walkに行ったが、動物は出て来ずに、空振り。
8日目には、まずビジターセンターへ寄り、ホバートへ行くのに西回りは地図上では近いが、道路が歪曲しているので時間がかかることを確かめ、東回りのローンセストン経由で行くことにして、ローンセストンの手前でホバートへ行く公路に入り、途中ロス・ビレッジ(Ross Village)で Ross Village Bakeryで昼食を食べて、この典型的な農村のダウンタウンを見学して、買い物もして(私はオーストラリアの松の木の石鹸を買った)、午後2時ころホバートに戻り、1週間前にサラマンカ通りの青空市場を十分見れなかったので、ゆっくりと見て、買い物もして(私はグリーンパーティーのブースで、Blue Hills HoneyというLeatherwoodの蜂蜜を買った)、ホバート空港でレンタカーを返して(街でガソリンを入れず大失敗、走行距離は全部で1,343km乗った)、Jetstar Airline 16:55発の飛行機に乗り、メルボルンで19:00発の飛行機に乗り(空港でオーストラリア歌集CDを買った)、シドニーでQuantas 21(22:15発)に乗り(この便で私の席の天井から水が降ってきてズボンが水浸しになったので文句をいったら、湿度が高く水分が凝結して露になってが降ってきただけで日常のことと、あやまりもしないので、飛行機のメンテナンスが悪いと再度文句をいったらSteven SorokaというCustomer Relations Managerが名刺を持ってあやまりに来て、Chapel Hillの高級レッドワインとDuty Free Spree券$50をくれて、さすが客扱いがうまい)、翌朝第9日目に東京成田へ到着して、全8日半に及ぶ夏のタスマニアの旅を終えた。オーストラリアの夏は2月末が一番暑いそうで、1月始めこの時期のタスマニアは山へ行ったせいもあり、すこし寒かったが、すばらしい自然でした。(2006.01.15.)
勤めていた会社の社内オフィスシステム担当者のアジア太平洋地区の会議があり、会の前に香港とシンガポールでそれぞれ一泊して遊んでから、シドニーへ行きました。香港ではケーブルカーに乗ったり、プラネタリウムを見たりして、シンガポールでは屋台料理へ寄り、プラネタリウムも見て、セントサ島でシンガポールの歴史館を見たりしました。この歴史館には第2次大戦中の日本軍の歴史場面があり、私はこういうのは始めて見るので、非常に印象的でした。シドニーでは会議が主でしたが、コアラのいる公園へ行ったのと、夜ホテルのプールで南十字星を眺めたりしたのを覚えています。
台湾に滞在中、5月ごろ家族でバリ島南端・ヌサドゥアにある「地中海クラブ」のリゾートへいったもの。宿舎・プール・海岸などすべてそろっているリゾート地だったので、途中ジャワ島で川下りをしたり、ジャワ島のボロブドゥール仏教遺跡へ見たりした以外は、バリ島を見たとはいえない。
中国の旧正月休みの南方のツアーをさがしてくれと大連の旅行業者に頼んでいたら、バリ島ツアーをさがしてくれて、最初上海経由と聞いていたのが、蓋を開けてみたら韓国・仁川空港経由で、7泊8日のツアーだった。ホテルはデンパサール空港から少し南の、「南湾」(とすべて中国語しか知らない)を隔てた東側(ロンボク海峡側)の海岸のホテル。
- お昼に大連〜ソウル、夕方にソウルを出発、深夜にインドネシアバリ島のデンバサー空港着
- 南湾内の海亀島、西海岸のタナ・ロットというお寺
- 午前中はバリ・ダンス、ろうけつ染め、木工品展示場、午後はバトゥール山近くのキンタマニ、ティルタ・ウンプルというお寺
- 午前中はアユン川下り、午後からは自由行動になり、ホテルのプールで泳ぎ、夕食は街の日本料理店、南の夜の星空
- ホテルのプールで泳いだり、街の見学、夕食は街のKFC
- ホテルのプールで泳いだり、街の見学、夕食はプールサイドのイタリア料理
- クタ・ビーチ、街の百貨店、クタ・ビーチで夕日、深夜にデンバサール空港を出発
- 早朝にソウルへ到着、お昼にソウル〜大連
無線LANでインターネットが使えたので、バリ島関連のページを作ったり、またバリ島の山と海、街をいろいろ見てよかったが、雨季(10月〜3月)だったので毎日雨に降られた。 (2010.02.12.)
台湾から日本へ帰って翌年、1992年(3月28日〜4月2日)に一家でマレーシアのチェラティン・ビーチ(Cherating Beach)にある地中海クラブのリゾートへ、以前のバリ島に続いていったが、東シナ海の日の出がよく見えるきれいな海岸だった以外はよく覚えていない。地中海クラブは子供が小さい時は安全でいいが、そのまわりの土地を見ないという欠点があり、その後いっていない。
最近大連の日本人の間で、日本へ行くのに韓国経由がはやっている。ソウルはインチョン(仁川)空港に着いて、スケジュールによってはソウルで一泊して、キンポ(金浦)空港へ移動して日本の羽田空港へ行くので少しめんどうなのだけど、JALやANAのバカ高い料金に比べて、とにかく安く、通常6千元するところを、4千元で済む。私は今回下の娘がマイレージを使っていいよということで、無料の往復だったが、私も帰りにソウルへ寄る気になり、2泊することにした。中国・大連滞在のこの8年間、そうしなかったのが不思議なくらいだ。
A.羽田空港の海外便 朝、家からガラガラと荷物を7分ほど引いて、5時半少し前の始発のモノレールでJR大船駅に行き、5:45発の湘南電車で横浜へ。そこで駅員に京浜急行の羽田直通を聞いて、少し待って、横浜6:17分発に乗り、蒲田駅で乗り換える必要はなく、6:42分にはもう羽田空港に着いた。羽田空港に来るのは何年ぶりだろうと思いながら(たぶん8年前にAS/400ユーザー・カンフェランス)、国際線乗り場を探したガ、分かりにくいところにあり、やっと第2ターミナルから無料の接続バスに乗って、まるでアフリカの小さな飛行場みたいなバラック建てに行った。立派なターミナルはいま建設中で、来年2010年秋にできるという。
ソウルへは、私はこれが3回目。1回目は20年くらい前に、パソコン通信の大会があって行き、オリンピック関係の施設でやり、ヨンサン(龍山)の秋葉原のようなところへ行った。2回目は10年くらい前で、教会の人たちとさまざまな教会を訪ねながら日韓の近代史を学ぶという旅行で、ソウル市内は3/1独立運動公園・市庁そばの聖公会大聖堂・南山公園のアンジュングン(安重根)記念館へいっただけで、観光地はほとんど見ていない。今回ソウルに寄ったもう一つの理由が、大連の教会での韓国人の友人が丁度旧正月休みでソウルへ帰っていたので、彼を頼っていった。
B.第一日目はソウルのイントロ キンポ空港には、友人が出迎えてくれて、彼の弟と車できてくれた。車はハンガン(漢江)の南側の自動車専用道路をさかのぼり、いろいろな橋を眺めて、まずサンシル(蚕室)にあるロッテホテル・ワールドやロッテワールド遊園地の近くのホテル・レークへ向かい、そこが一泊12万ウォン(1万円くらい)は個人払いでは高いということになり、そこから少し東に離れたところで、オリンピック公園の正式入り口(地下鉄の夢村土城駅)の向かいのハンミ(Hanmi韓美)製薬ビルの裏にある、ビジネスホテル・アテネというところに行き、そこは2泊で12万ウォンだった。ビジネスの人も多いのだが、恋人を連れて車で乗り付ける人も多く、ソウルでは通常ビジネスホテルはラブホテルも兼ねていて、駐車中の車はすべてホテルがナンバープレートを隠していた。それでもさすがインターネット大国・韓国、こうしたホテルも各部屋にインターネットと接続したパソコン(大型液晶ディスプレイ付き)があり、私もそのインターネット・ケーブルを持参のノートパソコンにつなぎ換えて、自由に使えた。
昼食は、ロッテデパートのレストラン街の「ハンヌリHanwoori」で(この店は北京にもあるという)、私の友人、ロッテ・グループのある子会社の会長さん、大連の教会の韓国系米国人の牧師さんの4人で。牧師さんは、いま大連で陽光国際学校と英語で教育する学校を企画中で、その話があり、みんなで協力することにした。昼食代金は会長さんが払ってくれるのかなと思ったら、牧師さんが払い、まずい、韓国は米国と同じで、牧師さんは最大の敬意を払わないといけないのだと思ったが、後の祭りだった。
午後は、私の友人と彼の友人で日本語ができる人を通訳にして、江南区の大きな花市場のそばにある、お花をインターネット経由でオーダーして届ける会社(OK Flower)へ寄って、社長さんに会って、大連ソフトウェアパークの紹介もした。お花の国際的なオーダーはこの通訳さんが英語でやっているそうで、彼は韓国の南西端から北東端まで週末に何年かかけて歩いている最中で、ソラクサン(雪岳山、1708m)や他の山を地図で紹介してくれて、ソラクサンは秋の紅葉時期に登り、みんなでごろ寝を我慢擦れは山頂で泊まれるということで、いつかぜひ一緒に行こうというような雑談をした。お花をインターネットで届けるのは、日本にもJFTD,富士生花店、日比谷花壇、JFNなどがあるが、韓国では40社くらいがひしめいていて、韓国の方々はみんな見栄っ張りだからお花の需要も多くて、いい商売になるということだった。
夕方、この会社の社長さんが焼肉の夕食をおごってくれた。中国の朝鮮族の娘さんたちがウェイトレスでというのは日本と同様で、全体においしかったが、ブルーベリーの味が付いたワインも飲み、これは特にマッシソヨ(おいしい)。ただし、私が好きのユッケ(牛の生肉)は大連の味付けの方がよかった。夕食後、この日の昼食で会った会長さんがまた来てくれて、彼が我々男4人をカラオケにつれていってくれた。韓国語、日本語、英語の歌があり、日本語文字も中国の香港製ビデオのように間違いはなくて、音響もなかなかよかったが、韓国人の方々はひたすら画面を見て歌う習慣で、日本や中国のように、聴衆の方を見てジェスチャーもまじえて歌わないのが、少し違っていた。ビールは韓国産のCassかHiteで、普通だった。夜10時ごろ散会して、会長が送ってくれるはずで帰りかけたが、二人でもう一回カラオケへ行こうということになり、それが終わってホテルに帰ったのは、もう真夜中を少し回っていた。
C.第二日目はおもに市内観光 二日目は、午前中にタクシーで韓国ソフトウェア産業協会(Korea Software Industry Association)へ行き、そこの国際部の部長さん(曹永薫Cho Yong Hoon)を昼食前の30分間訪問して、大連のソフトウェア産業を十分説明した。午後は地下鉄でそこの江南区庁駅から乙支路入口駅へ行き(繁華街のミョンドン明洞のすぐ北)、途中日本時代の銀行の建物や鐘閣(鐘楼)の写真を撮ったりしながら、チョンゲチョン(清渓川)大通りあたりからブラブラ歩いて、YMCAの前を通ったときに、友人が
- 韓国は以前田舎の農村だけだったが、日本が来て鉄道・港湾などのインフラを整えた
- キリスト教、特にYMCAの役割が大きかった
という説を披露したので、拝聴した。(彼の父親は京都大学出ということで、割り引いて聞かねば...)。ついでに書くと、彼は農業博士で、私より3年くらい若くて、中国の東北地区でサツマイモを作り、北朝鮮に送るNGO活動をしていて、心が非常にいい。
そこから歩いてインサドン(仁寺洞)という韓国の伝統的なお店が沢山あるいまはやりのところへ行き、サンチョン(山村)という伝統料理屋で禅料理風の昼食。このあたりで歩いているのは、1/3くらいは日本人旅行客だった。さらに歩いて、キュンボックン(景福宮)という昔の宮殿へ行き、そこで15:45に偶然に衛兵の交代みたいな式(守門将交代式)に出くわした。ここは、前面にある日本時代の総督府が目障りだからといろいろ議論の末に最近取り壊したとこで、北の背後にプガクサン(北岳山)が見えるすばらしい景色のところで、私の見たところ、総督府はいい建物だったのかも知れないが、本当に目障りだったと思う。そこからはバスに乗り、トクスグン(徳寿宮)前のソウル市庁舎へ行き、これは大連にある関東州庁(いまの大連市役所)とそっくりで、左右に警察署と裁判所があるのも、大連とそっくりなのだが、いまみな外装工事中で、うまく見られなかった。そこで日本人ツアーグループに出くわしたので、韓国人ガイドの説明をもれ聞いたが、最近のサッカー試合の前にここでデモがあったとかのみで、上のような説明は一切なかった。
ここからはタクシーに乗り、途中あの文禄・慶長の役で水軍を率いて活躍したイ・スンシン(李舜臣)将軍の銅像、ソウル駅とその隣りのガラス張りの新駅(新幹線発着所)と、つい去年初めに気違いが火を着けて燃やしてしまった南大門の工事を車中から写真に撮り、三角地駅から地下鉄に乗り、2回くらい乗り換えて夢村土城駅へ着き、そこから歩いてホテルへ帰った。2日目の夕食は私がおごることにして、日本式牛肉のしゃぶしゃぶを食べた。鍋が海鮮と牛肉の2つの味付けに分かれていて、野菜も多くてよかった。
D.第三日目の朝、ソウルから大連へ 三日目の朝は、友人と会長さんが7:30に来てロッテホテルに送ってくれて、そこから10分おきに出ているリムジンで、丁度1時間かけてインチョン空港に着き、9:40発のアシアナ航空に乗り、50分後には大連へ着いた。ブルコギのような簡単な朝食が出たが、コーヒーはすみません出せませんということだった。実は、カメラを会長さんの車に忘れてきたのを、リムジンの中で気づき、インチョン空港で電話しようとしたが、うまくできなかったが、さっき大連へ電話があり、無事発見されて、来週友人が持ってきてくれるという。
これまで韓国へ寄らなかった理由は、韓国語ができないのと、ソウルをよく知らないからだった。今回の旅行で、ソウルの地下鉄にも慣れて(しかも65歳以上は無料!)、2つの空港の配置も分かり、有名な場所も大体分かったので、韓国語はこれから徐々に慣れることにして、これからしばしば韓国へ寄ろうと思う。特にソラクサン(雪岳山)には、いつかぜひ登ってみたい。 (2009.02.07.)
ハワイ訪問の帰りに、ソウルへ2日間寄ってきた。大連住在の韓国人友人が案内してくれて、初日は東遠グループのIT関連子会社を訪問して、午後は大田市にある韓国電子通信研究院(ETRI)へ行って、「モット絶縁体」を研究している科学者に会ってきた。2日目は午前中LG関係の人に会い、午後は国立中央博物館(@龍山)を見て、韓国の歴史を学んできだ。 (2010.05.13.)
中国人の方々を日本で接待して、商談の合間を見て国内旅行に連れていくのは、どんなにしたらいいのでしょうか。11月のウィークエンドが空いたので、東京からは北郊外の日光/鬼怒川温泉とか西郊外の高尾山ハイキングとか昇仙峡とか思ったのですが、木曜日に急遽JTBの知り合いに電話して、箱根か伊豆半島の温泉へ行くように頼んだところ、「今年は紅葉が遅れていて、丁度シーズンになって、土日は箱根や伊東などのいいところが空いてなが、熱海や下田なら空いている」ということで、下田温泉を頼んで翌金曜日に事務所へ赴いて、現金を支払って、チケットを受け取りました。土曜日の朝7:30に品川プリンスホテルへ4人(男性3人、女性1人)を迎えに行き(4人共約束通り、チェックアウトして朝食をすませていたので助かりました)、東京駅8:00発の特急「踊り子」に十分間に合い、快適な列車のt日で、10:30に下田に着き、まだホテルのチェックインには早いので、駅前でレンタカーを見つけて、借りて(丸1日距離無制限で1万円弱)、まず伊豆半島のドライブに出かけました。
まず海岸を北へ河津を通って(「ここは2月に河津桜が咲くという」は説明はあまり興味はなかったみたい)、そこから天城峠方面へ行き(ここが川端康成の『伊豆の踊り子』(伊豆舞女)の舞台という説明は、皆この作品を知っていて興味があったようだ)、河津七滝(ななだる)で車を止め、そこの大滝庵で昼食のソバを食べて、大滝へ下りて見学して、写真を撮りました。また車に乗って、ループ橋・天城峠・浄連の滝を通り(もし女性の方が中ヒールで来てなかったら、山の中を少し散歩したかった)、修善寺へ入る前に西伊豆海岸の方へ抜けて、土肥へ入り(ここへ下るところの紅葉は、紅葉が全体的に遅れている今年は残念ながらまだ早かった)、ここから伊豆半島西海岸を南へ下り、堂ヶ島あたりで1、2回海岸の崖の上の公園で停車して(残念ながら富士山は見えなかった)、松崎を通り、17:00に下田温泉ホテル榮岬(はなみさき、0558-22-3111)へ入った。箱根の山の中のホテルとは一風変って、下田港と防波堤と岩の海岸が一望に見える、大変いいホテルでした。温泉も露天風呂から港が見え、良かった。食事は海鮮料理と例の伊豆の土地の料理で、皆さん大変良かったといってました。
翌日は8:00から朝食を取り、9:00にレンタカーで出発、下田港の防波堤で散歩して、石廊崎は遠いので止めて、爪木崎へ行き(2月に水仙が咲くというのには、あまり興味がなかったみたい)、写真を撮ったりして、11:00には下田駅へ帰り、レンタカーを返しました(135km走行して、ガソリン代は千円くらい)。ここで12:00発の東京行き「踊り子」に乗って、14:05に大船で降り、モノレールで藤沢市南東部(片瀬山)の我が家に寄ってもらい、我が家の中を案内して、車で近くの江ノ島のヨットハーバーを案内し(東京オリンピックのヨット競技が行われたという説明は、2008年北京オリンピックでヨットは青島で行なわれ、大連ではなくなったので、多少興味があったみたい)、これまた近くの鎌倉市南西部(鎌倉山)にある中国人の方の家へ行き(その週に東京でお会いした香港系会社の社長さん)、そこは茶室がある立派な家で、奥さんがここでお茶をごちそうしてくれて、もう1人の中国人の方も合流して、ワイフたちも一緒に七里ヶ浜のすし屋で夕食を食べて、食事後みなさんを藤沢駅まで車で送り、分かれました。費用はすべて含んで20万円くらいでした(すし屋での夕食は、我が家近くに住むこの中国人の方が払ってくれた)。(2004.11.14.)
中国の春節休暇で日本へ一時帰国した時にワイフが予約してくれて、2月の中旬にレール&レンタカーで、東北新幹線に乗り、郡山(こおりやま)で下りて、ホンダのフィット(Fit)を借りて、途中の猪苗代湖で白鳥の写真を撮って、裏磐梯にある磐梯高原休暇村へ行って、3泊4日してきました。2日目はスノーシューを借りて銅沼(1888年に大爆発があった火口)・イェローフォールへスノートレッキング(もくもく自然塾の池田睦宏さんが案内)、3日目には歩くスキーで中瀬湖あたりを歩き(同、清水秀俊さん)、4日目はまたスノーシューで五色沼(赤沼などの小さな沼の総称)を磐梯高原(西側)からビジターセンター(東側)までスノートレッキングで歩きました(同、高橋真希さん)。裏磐梯は12年前(1992年)の夏に家族で車で行き、磐梯山登山や五色沼散策をしたところで、なじみが深く、しかし今回は真冬で連日雪が降り、もう2mの雪に埋もれていて、近くにある磐梯山が見えたのは2日目の午後遅くからと2日目の午後のみでしたが、動植物の生態を観察をしたり、パン工房ささき亭(0241-32-2824)へ寄ってお土産を買ったりして、大変楽しい冬の旅でした。(2005.02.16.)
税金申告がまだだったので、旧暦正月の3日から短期間日本へ帰った。中国の旧正月休みなので混んでいて、JALしか空いてなく、往復運賃が5千元を超えてしまった。日本の家で申告書をがんばって書いたら、計算しだして税務署へ届けるまで3時間で終わって、近ごろの最短時間記録だった。それで、以前勤めていた会社の健康保険組合が経営する海の家が千葉県館山市にあるので、ワイフと一緒に一晩泊まりでいってきた。藤沢市から車で鎌倉・葉山を過ぎて、林交差点というところからNTT通信研究所・YRP(横須賀リサーチパーク)へ寄り、そこで写真を撮り、そこから三浦半島の一番先までいって東京湾フェリー(久里浜〜金谷)に乗ったが、最近「海ほたる」(東京湾アクアライン)経由が無料(千円?)になったため、毎日14便のフェリーはガラ空きになっていた。(ちなみにフェリーは乗員2人で往復が8260円だった。)我が家の車はETCなどという5万円だか3万円もする機器は搭載していないので、我々は東京湾フェリー存続署名に協力してきた。
私は館山の2駅手前の富浦というところにおじさん・おばさんがいて、中学・高校生のころそこに毎夏2週間くらい遊びに行っていて、おじさんは医者でそのころめずらしいテレビを見て、自家用車で鴨川高校へ剣道試合観戦などあちこち連れていってくれたので、館山へも花火を見にいつもいったりしていたので(「ナイアガラの滝」という仕掛け花火があった)、このあたりは多少知っている。宿泊先は以前私たちの子供たちが小さいころ来たこともある館山湾に面した海の家で、いまはもとの雇用主ともう一つの電機会社との共同経営に変わっていて(1泊ひとり4500円)、どうやら私はこれからはこの電機会社の保養所も使えるらしい。夕食は「キンメダイ」コースを特別注文してあったので(1500円追加)、おいしかたが食べきれなかった。
翌朝は近くの洲埼(すのさき)灯台を見て、房総半島の南端の千倉(ちくら)へ廻って、「花つみ」といって、近くの農家が道の駅近くに花園を開いて、そこで好きな花をつんで、買ってゆけるところが沢山あったので、好きに寄った。折からの陽光に照らされて、いい時を過ごした。そこから帰路に着き、岩井駅から少し内陸の富山(とみさん、標高369m)へハイキングがてら登ったら、ここは「南総里見八犬伝」の伏姫(ふせひめ)が愛犬・八房(やつふさ)と洞窟にこもって、そこで八剣士が生まれ、お家再興後に終えんを迎えたところで、ここで持参のおにぎり昼食を食べて、景色もよくなかなかよかった。夕方のフェリーが出る前に時間があったので、鋸山が東京湾へ尽きるところの明鐘(みょうがね)岬で、夕日が東京湾というか、相模湾というかに落ちるのを見て、金谷〜久里浜フェリーに乗って帰った。 (2010.02.19.)
長野県育ちの私だが、2011年の10月に始めて上高地へいった。ワイフと藤沢市の自宅から2泊で行ったもので、
- 快晴。車で6時間かけて神奈川県〜山梨県〜長野県乗鞍高原(海抜1500m)。シャトルバスで乗鞍岳畳平(2700m)へ行き、魔王岳(2764)、富士見岳(2918)へ登った。北アルプス穂高連峰がよく見えた。泊りは乗鞍高原休暇村で、夕食、温泉。夜は星空を観察。
- 曇〜雨。沢渡大橋からシャトルバスで上高地高原(1500m)へ行き、大正池から梓川に沿って歩き、途中ニホンザルにもあいさつして、ウェストン碑・河童橋を経て、明神池まで歩いた。曇り空で穂高連峰はよく見えず、午後は小雨が降り出したので早々に引き揚げて、乗鞍高原の別のホテル(山水館信濃)ですばらしい夕食、白色の硫黄温泉。
- 小雨〜晴。雨が何とか上がり、乗鞍高原を牛留池から善五郎滝(滝に虹)へ、かなり高低がある白樺林の中を散歩。車で下山して、梓川脇の安曇村の道の駅でトロロ・ソバを食べて、6時間かけて長野県〜山梨県〜神奈川県藤沢へ夜に帰宅。
この年の紅葉はいまいちだったが、いい山の空気を吸って帰った。 (2011.10.06.)
12年ほど前に、岩手県は東野駅のホテルに泊まり、早池峰山(1914m)に登り、レンタカーで東は宮古市の浄土ヶ浜、西は宮城県の平泉まで行ったことがあった。2012年8月、高校時代の同級生と一緒に岩手県北上市の夏祭りを見に行き、東日本大震災被災地である陸前高田、大船渡も訪れて、そのあとワイフと青森県の八甲田山へ登りにいった。5日旅行の行程は、
- 新幹線で北上市へ行き、ホテルへ。諏訪神社で東北地方の伝統的な踊りを見て、夕方みちのく芸能まつりを見学。
- バスで陸前高田、大船渡を訪問し、昼食は大船渡で。夕方は北上川で花火大会を見た。
- トヨタ東日本岩手工場(小型ハイブリッド車を製造中)を見学。午後、新幹線で青森へ行き、レンタカーで八甲田山へ。
- 八甲田山大岳へ登り、登りに仙人岱湿地帯を通り、下りは毛無岱湿地帯を通った。
- 八甲田ロープウエィで田茂萢岳に行き、田茂萢湿地帯を通ってから赤倉岳に登り、午後新幹線で帰った。
東日本大震災被災地の訪問は特に心に残り、こうした津波はいま私が住んでいるところも含めて、日本のどこにでも起こり得ると思った。 (2012.08.09.)
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