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Belgium, England, France, Germany, Denmark and the Netherlands on a Survey Trip (1974)

ベルギー、イギリス、フランス、ドイツ、デンマーク、オランダへ調査旅行 (1974)

開発中の新IBM 3270サブシステムの顧客調査のために、ニューヨークからヨーロッパIBM本部があるブリュッセルへ飛び、ロンドンで2軒、パリ、ミュンヘン、コペンハーゲン、アムステルダムで各1軒の顧客に会い、ブリュッセルへ戻り5か国の顧客の「要求仕様」をまとめたもの。

この調査旅行の途中にアメリカ人相棒が11月末の感謝祭のウィークエンドにブリュッセルの自宅へ帰ってしまい、私はコペンハーゲンにある60階建てのSAS航空の大ホテルに残されて、天気はヨーロッパの冬特有の曇り空で雲が30階くらいにあってホテルの部屋から地上は見えず、町中のチボリ公園は冬で閉鎖されていてやることがなくて、港へアンデルセン童話の「人魚姫の像」を見に行ったり、デンマーク国営ラジオのオーケストラを聞きにいったりした。

Cruising Downriver on the Rhine, Germany, on Business (1983)

Just before attending a conference on the Office Systems at IBM Germany's Boeblingen Laboratory while I was stationed in Kingston, New York, in 1983, I flew into Frankfurt, rented a car and visited Heildelberg, Sankt Goarshausen (took a boat cruising downriver to see the Lorelei Rock, etc.) and Baden-Baden, all along the Rhine River.

ドイツ出張中にライン川下り(1983)

1983年、ドイツIBMのボブリンゲン研究所で国際会議があり、その前にニューヨークからフランクフルトへ飛び、レンタカーでライン川沿いに、ハイデルベルク、サンクト・ゴアールスハウゼン(ここでライン川下りをしてローレライの岩などを見物)、バーデンバーデンまでいったもの。

About Greece

Greece is an interesting country.

ギリシャについて

ギリシャは面白い国だ。まず、高校時代に世界史の先生が「ペロポネソス戦争」について熱心に語ってくれたので、テルモピレー戦跡にあるスパルタ人を讃えるシモニデスの石碑を見たいものと思った。高校・大学の数学や物理の事業にギリシャ文字を習った。社会人になってしばらくして大学院生になったころは、ギリシャが民主化されたせいか、ブズーキなどを使ったギリシャの歌がアメリカでよく流行った。1984年にアメリカから日本へ帰る時に、世界一周チケットでイタリア・ギリシャへ寄り、ギリシャではアテネ、ペレウス港、エーゲ海、キクラデス諸島のミコノス島へ寄ったが、テルモピレー戦跡はアテネから遠すぎて寄れなかった。退職する直前にギリシャ語に関するページをまとめたことがあったが、実際にギリシャ語を学んだのは2020年5月新型コロナウィルス禍の時期に家にあった本『聖書ギリシャ語、四週間』を使って、基礎を自習しただけで、これから聖書をギリシャ語で読んだり、ギリシャ語の簡単な歌も覚えたりしたい。(2020.06.07.)

Italy and Greece During the Four-Week Around-the World Trip From NY Via Moscow & Tokyo (1984)

世界一周旅行でイタリアとギリシャ (1984)

(イタリアとギリシャ1984 旅行記の詳細)

1984年の夏、PanAm航空を利用して常に西または東へ移動すれば、ニューヨーク〜東京の航空運賃で世界一周ができることを妻が発見して、ニューヨーク〜ミラノ〜アテネ〜モスクワ〜東京〜ニューヨークと、家族で世界一周をしてきた。イタリアではミラノからレンタカーでコモ湖畔のストレーザで数日滞在して、イタリア・アルプスまで行ってモンテローザ山のケーブルカーに乗って(寒かった!)、ミラノへ帰り、そこからローマまでは汽車に乗り、ローマ見物の間にグループツアーでナポリ近くのカプリ島へ行き「青の洞窟」を見た。ギリシャではアテネのパルテノン神殿などを見学して、ピレウス港から船でエーゲ海を渡ってミコノス島へ行き、ヌーディスト・ビーチの隣りで泳いで、帰りにはシクラデス諸島のデロス島へ上陸して、ピレウス港では土曜日の混雑でタクシーが拾えずみんなでバッグをガラガラ引っ張って何とかアテネに戻った。その後、ロシア・モスクワの給油休憩でマトリョーシュカ人形を買って、日本へ帰り、一週間神奈川県の家でゆっくりした後に、ニューヨークへ戻った。

A Pilgrimage to U.K. 2001

See A Pilgrimage to U.K. 2001.

英国巡礼2001

英国巡礼2001を見よ。

France & Switzerland in Early Summer, Driving & Hiking (2007)

Two weeks in early summer, 2007: Tokyo - Paris - Versailles - Musée Rodin - TGV - Dijon - Beaune (Palais des Ducs, Chateau de Pommar, Chateau de Meursault) - Flavigny (Chateau Montfort/le Feu de Saint Jean) - Abbaye de Fontenay - Vézelay - Autun (Cathédrale de Saint Lazare) - Taizé Community - Lyon - Annecy - Chamonix (Montenvers 1910 m, L'Aiguille du midi 3842 m, Brévent 2525 - Planpraz 1999 m - La Flegère 1877 m) - Grimentz (Glacier de Moiry) - Nyon/Lac Léman - Geneva - Paris - Tokyo, driving a rental car from Dijon to Geneva

初夏のフランスとスイス、ドライブ&ハイキング旅行 2007

6月末に大連から日本へ帰ったついでに、2週間連れ合いとフランス・スイス旅行をしてきた。東京からパリへ入り、10日間をフランスで過ごし、4日間をスイスのフランス語地区に滞在した。ワイフとの2人旅で、訪れたのは
    1)パリ近郊
    2)ブルゴーニュ地方
    3)フランス・アルプス
    4)スイス・アルプス
    5)レマン湖畔で
で、旅行計画と予約はワイフがおもにインターネットでやってくれた。


写真は左から、パリのロダン博物館、ブルゴーニュのヒマワり畑、フランス・アルプスでハイキング

1)パリ近郊(Paris, 中国語:巴黎)

まずエール・フランスで東京・成田を10:30に出て、飛行機はAirbus A330で、てっきり北極回りかとむかし風の考えでいたら、各座席の画面を見ていると、まずハバロフスクの上空を通り、ロシアのウラル山脈が北極海へ落ちるあたりを抜けて、ストックホルムとコペンハーゲンの真上を通り、機内で昔学生時代に習ったフランス語が通じるかどうか乗務員と「パリの国会議事堂はどこにあるか、なぜ観光名所でないか?」などとフランス語で試しているうちに(フランス語が通じた!)、パリ空港(L'Aéroport Charles de Galle)へ16:10に着いた。そこから近郊電車RER(Réseau Express Régional)B線と地下鉄Metroでボンヌ・ヌヴェル駅(Bonne Nouvelle)近くの下町風のところのホテルに3泊して、パリでは1日は地下鉄でウロウロしたあとアンヴァリッド(Les Invalides)駅から近郊電車C線に乗って(セーヌ川沿いのいい線路だった)、西郊外のVersaille-Rive Gauche駅まで行き、ヴェルサイユ宮殿(Chateau de Versailles, 凡尓賽宮)を見て、もう1日はモンパルナス駅(Gare de Montparnasse)から国鉄SNCFに乗って、やはり西郊外のシャルトルのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Chartres, 在夏尓特的聖母大教堂)を見にいった。

ヴェルサイユ宮殿は、そこで第1次大戦終了のヴェルサイユ条約が調印されたという「鏡の回廊」(Galeries des Glaces、)の改修工事が丁度終ったところで、そこからよく見える庭園もゆっくりと回り、右手前方のガーデン・レストラン「La Petite Venise」で昼食を取り、ルイ14世(Louis XIV, 路易14)がマントノン夫人のために建てたというピンクの大理石でできた大トリアノン(Grand Trianon, 大特麗亜儂)、隣りのルイ15世がポンパドゥール夫人のために建てたという小トリアノン(Petit Trianon, 小特麗亜儂)と庭園まで見にいった。シャルトルでは、大聖堂を見た後、昼食時だったので、裏のウール川(L'Eure)まで降りていって、ポルト・ギヨーム(Porte Guillaume)古門近くのクレープ専門店「Les trois lys」(クレープが40種類くらいあった)で昼食を取って過ごしたりした。

パリはずっと以前来たことがあるので、市内はほとんど見ず、ただロダン美術館(Musée Rodin, 羅丹博物館)で丁度「日本の夢Le rêve japonais」という特集をやっていて、雑誌「白樺」の人々との交流などの展示や、彫刻「カレーの市民」(Les bourgeois de Calais)の実物などを見て面白かった。そういえば国会議事堂(L'Assemblée nationale)はパリの観光名所でないなと思っていたら、近くにあったので脇を通ったが、確かに大したことがなかった。夕方パリの国鉄SNCFの北駅(Gare du nord )に行き、フランスご自慢の高速鉄道(TGV = Train à grande vitesse)の切符を自動販売機でVisaカードを使って何とか買った。(多分ストライキだったのだと思う、窓口がすべて閉まっていた。) パリのタクシーは駅とか特殊なところまたは予約でしか利用できず、移動には電車を使ったので、地下鉄と近郊電車には大分慣れたかな? パリでの夕食は、時差もあり疲れていたので、1日はホテル近くの中華店まがいの店でフランスの代表的ビール、クローネンブール(Kronenbourg)も飲んで済ませ、他の日はやはりホテル近くのブラッスリー(brasserie, 軽食堂)で食べた。

2)ブルゴーニュ地方(Bourgogne, 布尓戈尼)

翌日パリ北駅からTGVに乗り (何だ、高速鉄道といっても、在来線に高速電車を走らせているだけか!)、一路ディジョン(Dijon, 第戎)へ。 ここはむかしブルゴーニュ大公国の都で、ブルゴーニュ大公宮殿(Palais des Ducs et de L'État de Bourgogne)などを見た。名物のマスタード(moutarde)を買い(中国の山西省名物のお酢みたいなもので、フランスのマスタードはほぼディジョン製)、いよいよそこでEuropcarのレンタカーを借りて(車種はRenault Clio 1400cc、ヨーロッパの車はみなマニュアル・シフト車で30年ぶりにクラッチを踏んだ)、3泊ほどホテルを転々としながら、フランス・ワインの2大産地の1つ、ブルゴーニュ地方の中心、城塞都市のボーヌ(Beaune)でワイン博物館はスキップして、往時の貧民救済病院・オテル・デュー(L'Hôtel Dieu)を見た。このあと、ブルゴーニュ・ワインのドメーヌを訪ね歩き、シャトー・ド・ポマール(Chateau de Pommard)とかシャトー・ド・ミュルソー(Chateau de Meursault)とかに寄り、試飲をして(試飲にさせてくれたのは、パリ出身で、ボーヌのワイン醸造大学を出た若い男)、ブールカン・ブレス(Bourg-en-Bresse)の地鶏料理やその他のブルゴーニュ料理を食べたりした。ブルゴーニュ地方の牧場で見る牛はすべて白で、これが有名な肉牛、シャロレー(Charolai)牛だったのだろうか。(あとでスイスで見た牛はすべて黒色で、大きい。)

ディジョンでレンタカーを借りての初日は土曜日で、まずフラヴィニ(Flavigny)という古き良き町(村)を訪ね、、その日に泊まることになったスミュール・アン・オソワ(Semur-en-Auxois)という城塞都市の観光案内所でモンフォール(Montfort)村の古城(Chateau Montfort)で「聖ヨハネの火」(le Feu de Saint Jean)という行事が行われるという広告を見たので行ってみると、大きな城壁跡の公園に近在の人々が大勢集まり、バンドがフランス古謡風の歌を歌い、夕日がが落ちて夕闇がせまるころ、22:50に城壁の上で火を一斉にたき、ドライアイスだったかこの煙が真っ赤になる演出をして、それが終ると前面に積んだ薪に火をつけ、まるで日本の田舎のドンド焼きのような行事だった。先住民のケルト族の夏至の祭りが現代に生きているのだろうか、興味深々であった。

ブルゴーニュ地方は中世にそれまでのベネディクト派修道会に対してクリューニ修道院(Abbaye de Cluny)、続いてシトー修道院(Citeau)が改革運動をやった土地柄のせいで、そうしたロマネスク風の教会や古いローマ時代の教会(églises romanes)も多く、まずディジョン近くでフォントネ修道会(Abbaye de Fontenay、シトー派)あとを見て(小高い山の中のきれいな小川の水が豊富なところ)、その他いろいろな教会あるいは修道院あとを訪ねたりした。中世に巡礼の対象になったヴェズレー(Vézelay)の聖マドレーヌ・バジリカ聖堂(Basilique Sainte Madeleine)では日曜日のミサにも出席できて、パンとぶどう酒をいただいたが、何と、さすがは赤ワインも白ワインもおいしいブルゴーニュ地方で、ミサのワインは白ワインでした!(パンはキリストの体、ワインはキリストの血を象徴いるので、通常世界中で赤ワインを使う。) この日は夕方オタン(Autun)という、ローマ帝国のアウグスト帝が築いたころはローマと並んで勢いがあったという町(本当だろうか?)でも、聖ラザール大聖堂(Cathédrale de Saint Lazare)の夕方のミサに出席できて、ここは完全に歌ミサで、合唱隊も、パイプオルガンも、聖堂もマニフィーク!(Magnifique!)、すばらしかった。ヴェズレーからオタンへ行くにはモルヴァン山地を通り、ここは地域自然公園(Parc naturel régional du Morvan)になっていて、120kmにわたる自然遊歩道などもできている地域で、ローマの軍団と戦ったケルト民族の英雄ヴェルサンジェトリックス(Vercingétorix)の伝説もあるらしい。

クリューニ修道会の少し北に テゼ共同体 Taizé Communityがあり、私は特にそこの聖歌(賛美歌)が好きで、また日本人友人も訪れているので、そこへ寄った。第2次大戦中にのちに初代指導者になった、スイスの改革派のブラザー・ロジェ(Brother Roger)がユダヤ人などをかくまったことで始まり、のちには世界のプロテスタント/カトリックあらゆる宗派のクリスチャンが自分自身を発見するためのリトリートに集まるところになり、また毎年ヨーロッパの1つの都市を決めて1週間の集会をやっていることでも知られていて、この日はドイツから1年間ご奉仕に来ているファレナVarenaさんが案内してくれた。ブラザー・ロジェはインドのマザー・テレサ(Mother Teresa)とも親しく、共著の本なども出しているが、最近亡くなっており、近くの村の教会にお墓があった。

そこからオートルート(Autoroute、有料高速道路)を飛ばして、フランス第2の都市、リヨン(Lyon, 里昴)に2時間滞在した。むかしは絹織物が盛んだった町だそうで、北からのソーヌ川(Saône)が東のアルプスからのローヌ川(Rhône)へ合流してそこからアヴィニョン(Avignon, 亜維濃)・マルセーユ(Marseille, 馬賽)へ下る水の町で、日本の大阪みたいなところなのでしょうか、でも滞在が短かったのと、駐車場さがしで手間取り、サンテクジュペリ(Antoine de Saint-Exupéry)の銅像も見そこない、リヨンはよく見ていない。

3)フランス・アルプス(The French Alps, 法国阿尓卑斯山脈)

次にまたオートルートを飛ばして、美しい湖のほとりのアヌシー(Annecy, 安納西)に寄って(市内で道に迷い、大雨に降られたりした)、今度はクネクネとした国道を登って、フランス・アルプス登山の中心地、シャモニ(Chamonix, 夏木尼)へ着いた。途中 「シュトラスブール(Strasbourg)までxx km、ジュネーブ(Genève)までyy km、ミラノ(Milan)まで445 km」 などの案内標識を見て感激することしきりで、いよいよフランス・アルプス登山のメッカ、シャモニに着いた。(シャモニの手前で右へ、モンブラン・トンネルを抜けると、イタリアに出れる。)注:今回旅行ガイド「地球を歩く、フランス」(ダイヤモンド社)最新版をよく使い便利だったが、シャモニの山岳鳥瞰図だけは、上がほぼ南で(通常は北)、左下のスイス方面へ徐々に下がっている(実際は徐々に上がってゆく)ような常識はずれの構図で、おかげで私は自分の位置がよく分かるのに2日ほどかかり、これは早急に直す必要があると思った。

シャモニには3泊して、天候が全体に不順だったが、3日有効のケーブルカー/登山鉄道用マルチパスでシニア割引をがあるのを見つけて52.80ユーロで買って、1日目はモンタンヴェール(Montenvers、高度1910m)の氷河を登山電車で見に行き、そこから2時間ハイキングをしながら、シャモニまで下った。2日目は午後から晴れ間が出るという天気予報だったので、ケーブルカーでエギュイーユ・デュ・ミディ(L'Aiguille du midi、昼の針)展望台(高度3842m)まで行ってシャモニ名物のモンブラン(Mont Blanc, 4810m, 勃朗峰)を見ようとしたが、雲が出て全然だめで、いそいで下山して、向かいのブレバン(Brévent, 2525)までケーブルカーで行き、中腹のプランプラズ(Planpraz, 1999m)まで戻って、ラ・フレジェール(La Flegère, 1877m)まで2時間40分歩いて、連日のハイキング.で疲労困憊したが、この町の観光案内所で無線LANが自由に使えることが分かり、夕方また元気で街へ出た。

3日目にやっと天候が回復して雲ひとつない快晴になり、またエギュイーユ・デュ・ミディ展望台までケーブルカーで行ったら、モンブブランがバッチリも見えて、またまわり360度は雪をいただいたフランス・アルプスの世界。この日は本当に見通しがよく、遠くのマッターホルン(ドイツ語名Matterhorn, 4478m, 馬特霍恩山、案内板にはそのイタリア語名から来たらしいフランス語名Le Cervinと書いてあるでなかなか気づかない)やモンテ・ローザ(Monte Rosa)連山までがよく見えて、めずらしいことだという。そこからプラン・ドゥ・レギーユ(高度2310m)へ降りて、前々日に行ったモンタンベールまでのハイキングを4時間、きつかったけど楽しんだ。途中でナント(Nante)から来た大学の先生(地質学専攻)ご夫婦と一緒になり、フランス語で植物の名前を教えてもらったりした。

このあたりのローヌ・アルプ県(Rhône-Alpes)は、ナポレオン3世の時代にフランスにイタリアから併合された、通常サヴォア(Savoie)地方と呼ばれる所で、冬季オリンピックが開かれたグルノーブル(Grenoble)やアルベールヴィル(Albertville)もあるので、長野冬季オリンピックの時にこのあたりは長野県と姉妹県になっていると聞いていたので、大変親近感があった。夕食は3回とも、地元ワインとサヴォア料理のペラ(Pêla、土地のソーセージなどのグラタン)、ラクレット(Raclette、3角形の大きなチーズの塊の1辺を徐々にコンロで溶かし、それを少しずつ削って生ハムなどに付けて食べる)など、チーズをふんだんに使った田舎料理を楽しんだ。

4)スイス・アルプス(The Swiss Alps, 瑞士阿尓卑斯山脈)

シャモニからクネクネとした国道で、マニュアル車を急カーブは曲がる前にを3段ギアから2段ギアに落としてアクセルを踏みながら走るなど慣れない運転を続け、途中エギーユ・ルージュ(赤い峰)自然保護区(Réservé naturelle des Aiguilles rouges)を通り、国境では国籍を聞かれただけで、するりとスイスへ抜けて、まずマルティニ(Martigny)という街でオートルートに入り(ここからグラン・サン・ベルナールCol du Grand Saint Bernard峠の下のトンネルを通るとイタリア)、高速道路はタダなのでいい気で時速130kmでタコメーターを4000回転に上げて飛ばして、ツェルマット(Zermatt, 策馬特)のある谷(マッターホルンなどが眼前に見える)のもう1つ手前のアニヴィエの谷(Val d'Anniviers)にSierreから入り、グリメンツ(Grimentz)に着き、そこに3泊した。近年花を街中に飾って有名になった小村で、翌日から近くのお花畑のある小道を散歩したり(St-Luc村)、悪天候のつかぬ間の晴れ間にダン・ブランシュ(Dent Blanche白い歯、ドイツ語名Weisshorn)と呼ばれる山のモアリ氷河(Glacier de Moiry)までハイキングして、朝スーパーで買ったサンドイッチの昼食をほばりながら、ワイフとふたりで、眼前の氷河を独り占めにした。

あとで地図を見て調べたら、ここらあたりはフランス・スイス・イタリア国境の、イタリア語でペンニネ・アルプス(Pennine Alpi)といわれるところで、モンブラン〜ヴァイスホルン〜マッターホルン〜モンテローザへ続く山脈だと分かった。スイスの牧場で見る牛は首に大きな鈴を付けていて、すべて黒色で、大きかった。

グリメンツのホテルのレストランで、土曜日にスイス伝統音楽のバンドが入って、小さなアコーディオン3人、ベース1人の合計4人構成で、あとで聞いたらフランス語は話さず、ドイツ語を話す人たちだった。(ドイツ南部の有名な民謡“Drunten im Oberland, Da ist sehr gut!”を知っているか聞いたが、知らないといっていたので、ドイツとはあまり交流がないらしい。)隣りのテーブルに3組の初老の夫婦が来ていて、みなこのバンドの音楽に合わせてかわるがわるに踊りだしたて、そのうちの女性1人がグリメンツの出身で、ジュネーブからウィークエンドに来ているとのこと。「これはマズルカだ」などといっていたので、年齢的には同世代だと思うが、ジルバーやマンボ以降の我々には歯が立たなかった。

このレストランのウェイターがフランス西部から来た気のいい若者で、少し話したら、スイス・フランス語はフランスのフランス語と少し違い、70はseptante、80はhuitante、90はnonanteと簡単ないい方で(フランスでは、以前のケルト民族の習慣の名残りと聞いているが、それぞれ60+10、4x20、4x20+10と複雑な言い方をする)、また、スイス人はフランス人に比べてなかなか外国人と打ち解けない、オープンでない、といっていた。多分なかなか土地のガールフレンドができないという意味でしょう。

5)レマン湖畔で(On Lake Leman, 在莱蒙湖)

旅行最後の日は、帰りの飛行機に乗るためにスイスのジュネーブへ向かい、モントルー(Montreux)でレマン湖(Lac Léman)が見え初め、これに沿って進み、レマン湖に面したきれいなニオン(Nyon, 尼永)という、ローマ時代に建設された町に寄って古城やローマ時代の遺跡を見た。(大連に帰ってから同僚のスイス人がニオン出身と分かり、先週はモントルー音楽祭の最中で、今週末にニオン音楽祭もあるので帰郷するといっていた。)そろそろ車の運転に飽きてきて、レンタカーを早目に返すことにしたが、ジュネーブ空港は半分スイス・半分フランス領にあり、そのフランス領で返さねば料金が高くなるので、まず一旦空港のレンタカー返却所(スイス側)へ寄って聞いて、そこを出てローザンヌ(Lausannne)方面へ戻り、フェルネイFerneyへの道路標識に従って行き、フランス国境を越えたところのスタンドでガソリンタンクを満タンにして、そこですぐ左へ曲がるなど、苦労してやっと返却場所を探し当てた。走行距離は合計140kmで、10日間借りたから、1日平均140km走ったことになる。

空港で3時間ほど時間があったので、ジュネーブ(Genève, 日内瓦)の町を見ようと思い、また空港のスイス側へ行き、スイス連邦鉄道SBB CFF FFS(CFF = Chemins de Fer Fédéraux Suisses)で急いでコルナヴァン駅(Gare de Cornavin)に行き、そこから歩いて、ローヌ川の橋を渡って、レマン湖畔の有名な花時計を見て、旧市街のサン・ピエール聖堂(Cathédrale Saint-Pierre)などを見た。この聖堂は、スコットランド出身のジョン・ノックス(John Knox)もジュネーブの英語会衆の担当牧師だった、プロテスタント改革派の総本山の1つ。駅への帰りの路面電車で若い男に料金の支払い方法を聞いたら(停留所の機械で買う自己申告制)、イタリア語地区出身の弁護士さんで、スイスの多国籍企業のコンサルティングはほぼ英語でやる、ガールフレンドと一緒に住んでいるが結婚はしていないなど、いろいろ英語でお話しができて面白かった。

またすぐ急いで電車でジュネーブ飛行場へ戻り、空港駅(空港のスイス側)の端にあるミグロス(Migros)というスーパーでチーズ・チョコレート・お酒などあらゆる買い物を安くできて、また空港のフランス側へ戻り、エール・フランス国内便20:30出発でパリへ行き、パリからの国際便は22:30出発で、梅雨真っ只中の東京・成田へは翌日18:00に着いた。日本、続いて2日後に中国・大連へ帰って、1週間は時差ぼけで午後1〜3時ごろ眠くて困った。フランスのドライブとハイキングはなななか面白かったので、また学生時代に習ったフランス語がうまく通じることが分かり、来年あたりフランスのトゥレーヌ(Toureine)地方(ロワール川La Loire沿いの「フランスの庭Jardin de France」)〜ボルドー地方(Bordeau)〜ピレネー山脈〜スペインのバスク地方などへ行ってみたい。 (2007.07.11.)

Southwestern France, Driving & Hiking (2008)

Ten days in Sept. - Oct., 2008: Tokyo - Paris - Toulouse - Figeac - Montigniac/Lascaux II - Rocamadour - Cere - Loubressac - Conques/St. Jacques' Pilgrimage Road - St. Leons (J.-H. Fabre's House - Carcasonne - Castel/Pic de Canigou (2785m in the Pyrenese Mountains) - Toulouse (Basilique de St. Sernin, Cite de L'Espace, etc.) - Paris - Tokyo, driving a rental car

フランス西南部 2008

9月末から10日間、フランス西南部へ旅行する機会があり、もっとも最近フランス化されたカタール地方、もっとも最近スペインからフランスへ併合したカタロン地方、トゥールーズのエアバス製造地を見て、ピレネー山脈の山にも登ってきた。まず、第1日目は、成田12:00発のエール・フランスで、パリに17:30に着き、すぐ18:30発の飛行機で飛んで、19:50にトゥールーズ(Toulouse)に着いて、すぐEuropcarを借りて、その晩は空港近くのホテルに泊まった。2日目は、朝MoissacのEglise abbatiale Saimt-Pierreの回廊(Cloitre)を見て、Cahorの町でサンドイッチを食べて、午後は崖の上の町Lapopieに寄り、夕方Figeacの町の郊外のLe BourgにあるMas de la FeuilleというCharlesとSugakoが経営する田舎屋に(牛小屋を改造したらしい)、その日から3日間泊まった。3日目は、朝少し遅く出発して、Montigniacでラスコー洞窟(Lascaux II)の入場券を手に入れて、そこで昼食を食べ、町もチョット見て、14:30から郊外のラスコー洞窟英語ツアーに参加して、壁画を見た。帰りは18:00にRocamadourという岩の上に張り付いたような町に寄り、19:30に田舎屋に帰った。第4日目は、午前中にCereという町のそばの山の上にあるJean Lurcaの美術館を見て、断崖の下のAutoireという田舎町で昼食をして、そこから河をさかのぼり滝を見て、Loubressacという村でSt Jean-Baptisteを見て、早目に田舎屋へ帰り、近くの泉へ水汲みにいった。

5日目は、いよいよConquesという山間のサン・ジャックへの巡礼路に当たる教会へ寄り、そこでランチを食べ、午後St. Leonsにある昆虫学者ジャン・アンリ・ファーブルの生家へ寄った。彼は日本では子供の物語にもなっているが、フランスでは昆虫学者とだけ知られていて、子供向けの本は出ていない。また、ファーブルの子供時代はこのあたりはラングドック語(Langue d'Oc)という言葉が使われていて、彼の父はフランス語もできたので、法的な手続きなどの簡単な翻訳の仕事で生計を立てていたというし、ファーブル自身も沢山のラングドック語の詩も書いている。そこから、ミヨー橋(Viaduc de Millau)と呼ばれる、高速道路の大橋(高さ343m)を見て、超えて、この晩はこれはまた田舎のAuberge Val Mourezeに泊まった。6日目は、日曜日にあたり、10;00にSt Gilhelm le Desertへ着き、11:00からそこでミサに参加、聖書は旧約のエゼキエル、新訳の手紙はフィリピ、福音書はマタイ。午後、カルカッソンヌ(Carcasonne)でHotel Pont Neufに泊まる。夜、古城めぐり、Pont Vieuxからも見る。

7日目は、スーパーGeantで買い物、電源アダプターとのこぎりを買う。Limoux-Quillan-Axat、Gorges de St. Georges、Rockfortを経て、道端で昼食、Col de Jau峠(1506m)を経て、CastelのホテルLe Molliereへ到着。夕方L'Abaye Saint-Martin du Canigouへ登り、ツアー(5ユーロ)に参加して、下山。夕食はVernet-Les-BainsのLe Colibri Bar-Brasserie-Pubで食べたが、まずかった。8日目は、8:20にピックアップしてもらい、8:40から25?でピレネー山脈のカニグー山(Pic du Canigou、2785m)へのツアーで、オープン四駆(ポルトガル製のumm)で出発し、10:15にシャレー(Chalet des cortatets、2200m)へ到着し、10:30にここから登山開始し、12:10最後の登り手前、13:000登頂&昼食。13:30に下山開始し、13:50にコルへ、14:50にChaletへ戻り、15:20には四駆で下山し、17:00にはホテルでビール。夕食。9日目は、9:20に出発、9:20にAbaye de Cuixaへ、12:00にMont-Louis(Vaubanが作った旅行地の一つ)で買い物をして、外で昼食。 15:30にCol de Paiheres峠(2001m) へ、18:00にトゥールーズの南郊外のAuteriveにあるLa Maison Pierretteで宿泊。10日目は、9:30に出発、10:45にトゥールーズ市内のPont St. Pierreの脇のガロンヌ川沿いに駐車して、トゥールーズ大学I(UT1: 社会科学)を通ってキャピトル広場で旧市庁舎(Mairie)、サン・セルナン聖堂(Basilique de St. Sernin)、13:00に昼食後、15:15にシテ・ド・レスパス宇宙技術テーマパーク(Cite de l'Espace)へ寄って、さらにスーパーChampionにも寄り、17:30にエアバス(Airbus)の製造工場へ。18:15 Europcarへ車を返却して(合計1516km/9日=毎日170km)、エール・フランス20:45発で、パリ到着。 23:30にパリ発、B777-300 (325 seats)で、ウラル山脈の中程、ブラーツク・アンガラ川、バイカル湖の上を通り、翌日東京へ到着。

この旅行で興味深かったのは上にも書いたように、この地域で過去使われていたオクシタン言語(Langue occitane)はオック語(Langue d'Oc、フランス北部のオイル言語Langue d'Oïlに対して)とも呼ばれ、フランス語ともイタリア語ともスペイン語とも違っていて、この地域が18〜19世紀にフランスに統合されて行く過程で、組織的に使用を禁止されて死語になっていった。昆虫学者で昆虫に関するすばらしい物語を書いたジャン・アンリ・ファーブルはオキシタン言語と文化の擁護者であった。フランス北部の人たちのこうした偏見は、13世紀のアルビジョア十字軍で南部の人たち何百万人を殺戮した。こうしたことを発見して私はショックを受け、自由・平等・博愛の三色旗のフランスの他の地方へ行くのは止めてしまった。 (2008.10.03)

Andalusia, Spain (2011)

Two weeks in May, 2011: Tokyo - Paris - Malaga - Sierra Nevada - Granada - Cordova/Guadalquivir River - Carmona - Seville - Arcos de la Frontera - Donana National Park - Malaga - Paris - Tokyo, driving a rental car

スペイン・アンダルシア地方へ旅行 2011

(スペイン 2011 旅行記の詳細) 2011年に中国に滞在中に五一休暇を延長して、スペインの西南にあるアンダルシア地方へワイフと2人で旅行してきた。私はスペイン旅行が初めてであるが(ワイフはずっと以前イビザ島で遊んだことがある)、首都マドリードでプラド美術館(普拉多博物?)や第二の大都市バルセロナでガウディ設計のサグラダ・ファミリア教会を見るよりは、スペインのこの西南部の歴史ある地方を選んで13泊(1泊は飛行機で)の旅だった。

その歴史というのは非常に興味深く、そこのイベリア人の土地は紀元前3世紀ごろからローマ帝国の最西端となりローマ文化がもたらされ、紀元後415年には西ゴート王国になり、711からはイスラム教徒が北アフリカから侵入して、後ウマイヤ朝下で中世ヨーロッパの暗黒時代に大いに繁栄した文化があった。1469年に「カトリック両王」(Los Reyes Catolicos、the Catholic Monarchs)と呼ばれるイサベル女王フェルナンド王子が結婚してスペイン統一とレコンキスタ(キリスト教徒によるスペイン奪還)が1492年のグラナダ陥落で最高潮に達して、この地方からその前年にコロンブスが、1519年にマゼランがこの地方から大航海に出帆した。1588年にこの地方を出港した無敵艦隊は英国に敗れ、スペインの栄光は終るが、この地方を中心としてアメリカへの移民が行われて、いま中南米のスペイン語圏ではマドリードあたりの標準語でなくてこの地方の方言が中南米で話されている。また、スペインとポルトガルが日本へキリスト教布教を始めた16・17世紀には、遣欧少年使節団と支倉常長がこのアンダルシア地方も訪れている。

我々の旅行は日本からパリへ行き(最近日本からスペイン直行便がなくなったので)、東京からマラガ(Malaga)へ飛んだ。ここは地中海コスラ・デル・ソル(Costa del Sol=太陽の海岸)の中心になる国際都市で、ローマ時代の城塞をアラビア風に変えた遺跡とピカソ美術館を見た。ここでレンタカーを借りて、シエラネヴァダ山脈(Sierra Nevada)を越えてグラナダ(Granada)へ行き(アルハンブラ宮殿=the Alhambra Palace、カトリック両王が眠る礼拝堂)、そのあとはグアダルキビル川(Guadalquivir River)に沿ってコルドバ(Cordoba、巨大なイスラム寺院を改装したキリスト教大聖堂、花の祭り)、カルモナ(Carmona、我々が2番目にいいと思ったパラド−ル)、セビーリヤ(Seville、やはりイスラム寺院を改装した世界で3番目に大きなキリスト教大聖堂、日曜日のミサ、コロンブスの墓、フラメンコ舞踊)、アルコス(Arcos de la Frontera、最高のパラドール)、ヘレス(Jerez de la Frontera、シェリー酒 Sherry wine、馬祭り)、グアダルキビル川の大西洋への河口の湿地帯であるドニャーナ国立公園(Donana National Park)へと回って、またマラガに戻って、総計900キロをドライブした。

ホテルはパラドール(Parador)と呼ばれる、おもに古城を改造した半官半民ホテルに泊ったので、大変よかった。この地方に工業はあまりなく、観光業と農業が盛んで、なだらかな丘の上までオリーブ林があり、秋まき小麦がそろそろ収穫時期を迎えていて(オレンジは少し離れたバレンシア州で盛んらしい)、様々なワインと、5月なのに午後の最高温度が35℃にもなったので土地のクルスカンポ・ビール(Cruzcampo)は特によかった。スペイン人はパンにバターでなくてオリーブ油を付けて食べる習慣で、フルーツは食べるが野菜はほとんど食べない。いくつか見逃したものもあり、コルドバではローマ橋のそばにある『ドン・キホーテ』(Don Quixote)に出てくる旅籠屋「ポトロ」(Potro)を見過ごした。また、あと2・3日あればジブラルタル海峡を渡って北アフリカのモロッコに寄れたが、これもできなかった。 (2011.05.19.)

Austria and Croatia (2011)

Seventeen days in early fall, 2012: Tokyo - Vienna - Graz - Zagreb - Plitvice National Park - Split - Hvar Island - Makarsk/Vosac Mountain (1422 m) - Dubrovnik/Srd Mountain - Vienna - Tokyo, driving a rental car from Zagreb to Dubrovnik

オーストリア・クロアチア旅行 2012

2012年の初秋、オーストリア・クロアチア旅行へワイフと行ってきた。2週間強の全体行程は
  1. 朝11:15東京成田発のオーストリア航空で出発、約11時間でウィーン(Vienna)に到着。空港から市内へのバスで財布を落とすハプニングがあったが、幸い運転手が拾ってくれて、その日に入手。
  2. ウィーン王宮、街歩きをして、夕方は学友協会(Musikverein)でモーツァルト音楽会。
  3. ウィーンで、シェーンブルン宮殿、ベルヴェデール美術館を見学。
  4. ウィーンで、国連シティー(UNO City)を見学して、ドナウ川をちらりと見た。日曜ミサ(ウィーン少年合唱団付き)、スペイン乗馬学校へ行き、郊外のベートーベンの小道、ワインの里を散歩。
  5. ウィーンから列車で、アルプス山脈のセメリング峠を越えて、オーストリア第3の都市・グラーツ(Graz)へ移動。中心広場とシュロスベルグ(城山)を見て歩く。
  6. グラーツでエッゲンベルグ城(Eggenberg Castle)、中央教会、ムーア川(the Mur River)。
  7. 早朝06:08グラーツ発の列車に乗り、ハンガリーに一時入り、13:30にクロアチアのザグレブへ到着。イェラチッチ広場、Kaptol地域・Gornij Grad地域などを見た。
  8. レンタカーを借りて、高速道路A1と国道1号線を経て、プリトヴィチェ湖群国立公園(Plitvice Lakes National Park)へ到着。順路Eに沿って園内を散歩。
  9. プリトヴィチェ国立公園内を、順路Fに沿って、はじめ船で渡り、あとは散歩、午後は順路Fの変形でさらに散歩。
  10. プリトヴィチェ公園を出発して、アドリア海に面したシベニク(Sibenik)に寄り、スプリット(Split)へ到着。
  11. スプリットで、アドリア海のフヴァル島(Hvar Island)へ日帰り観光。
  12. スプリットで、隣町・マカルスク(Makarsk)にあるビオコヴォ山脈(Biokovo Mountains)に行き、ヴォシャツ山(Vosac、標高1422m)へ登山。山頂からはアドリア海と諸島のすばらしい景色。
  13. スプリットをレンタカーで出発して、一時ボスニア・ヘルツェゴヴィナを通過して、夕方ドブロヴニク(Dubrovnik)へ到着。
  14. ドブロヴニクで、城壁の上を周遊。ユダヤ教博物館を見学して、街の背後のスルジ山(Srd)へケーブルカーで登る。
  15. ドブロブニクのホテルの近くの半島を早朝散歩して、飛行機でウィーンに移動。夕方ホイリゲ(Heurige、音楽付きで新酒ワインを飲ましてくれるところ)へ行った。
  16. ウィーンの街を早朝散歩。オーストリア航空でウィーン出発。
  17. 早朝、東京成田へ到着した。
最近中国と日本の小さな島をめぐる争いが気がかりで、この旅行の間もその関係のニュースを毎日インターネットで見ていた。クロアチアは1991〜95年にかけて独立戦争があり、コソボの戦いだとか、ドブロヴニクの攻防戦を我々もニュースで見て、1998年にはやっと勝利を経て、私は少なくとも3人のクロアチア人からその経緯を聞かせれた。言語的にもこんな近しいクロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェコヴィナなどが、どうして宗教や政治的な独裁者によってこうした争いがあるのか、理解に苦しむ。また、ここから遠く東アジアを考えると、文化的にも近しい中国・日本・朝鮮がどうしてこんなにも争うのか、不思議でならない気がした。民族を中心に国家を作り、まず国家の利益を考えて、人類全体の利益は二の次にしてしまうという現代化社会は早く脱皮しないといけないとつくづく思った。 (2012.10.13.)

Moscow Airport in Russia (1984)

Bought a Matryoshka doll at the Moscow Airport, during the Four-Week Around-the-World Trip from NYC.

ロシアのモスクワ飛行場 1987

ニューヨークからの「四週間世界一周旅行」で、モスクワ飛行場で給油中に、マトリョーシュカ人形を買っただけ。

Russia (2009)

Two weeks in July, 2009: Tokyo - St. Petersburg - Tsarskoye Selo - Novgorod - Moscow (Red Square, Tretyakov Gallery, etc.) - Sergiyev Posad (Trinity Monastery) - St. Petersburg - Tokyo, on a private tour, staying at my friends' houses

ロシア 2009

(ロシア 2009旅行記の詳細) 私は学生時代にロシア語も勉強して、留学しようかなと思っていたが、結局社会人になってからアメリカへ留学して、ずっとアメリカとコンピューター関係の仕事をしてきたので、ロシアへ行く機会がなく、ロシアがなぞの国だった。今回初めてひとりでロシアへいってきた。全体で14日間で、おもにサンクトペテルブルグ(SP)にいて、モスクワへも3日間行き、旅程は次のようなものだった。
  1. 大連〜北京〜サンクトペテルブルグ(SP)
  2. ネフスキー通り、青銅の騎士、音楽会
  3. ロシア語授業、ペテロパヴロフスク要塞
  4. 郊外のツァールスコエ・セロー
  5. 小博物館3つ
  6. エルミタージュ博物館
  7. 怠惰な土曜日
  8. ロシア建国時の都・ノヴゴロドへ日帰り旅行
  9. 郊外のペテルゴーフ、夜行でモスクワへ
  1. 赤の広場、クレムリン、雀の丘(モスクワ大学)
  2. セルギーエフ・ポサード(有名な修道院がある)へ日帰り旅行
  3. トレチャコフ美術館、汽車でSPへ帰る
  4. 仕事がらみの訪問2つ(ロシア・ソフトウェア協会など)
  5. 市内で買い物、バレー「白鳥の湖」
  6. 日曜礼拝、SP〜北京〜大連
泊まったのは日本人友人の友人の紹介でロシア人家庭で、モスクワもそこの友人宅へ泊めて貰った。これでロシアのなぞもだいぶ解けた気がする。いつか、コーカサス山脈、バイカル湖方などへも行ってみたい。(2009.07.06.) 詳しくは、ロシア旅行日記2009へ。 (2009.07.22.)

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Prepared by Yoshi MIKAMI on November 14, 2004. Last update: May 27, 2017 / June 7, 2020.