スペイン旅行2011年(アンダルシア地方)

By 三上吉彦 @中国・大連 2011/05/16

 

My Trip to Andalusia, Spain

By Yoshi MIKAMI in Dalian, China2011/05/16

 

 

 

アルハンブラ宮殿

 

セビリアでフラメンコ

 

 

内容 The Contents

旅行日記... 1

2011.05.08. スペイン・アンダルシア旅行(1):旅行の準備、エール・フランス航空、マラガで時差調整、グラナダのアルハンブラ宮殿、乾燥したスペインの大地、コルドバの日曜日.. 1

2011.05.12. スペイン・アンダルシア旅行(2):小さな町カルモナ、セビーリヤは大都会.. 1

2011.05.16. スペイン・アンダルシア旅行(3):アルコスのパラドールは最高、ヘレスの馬祭り、ドニャーナ国立公園、マラガヘ戻る... 1

2011.05.19. スペイン・アンダルシア旅行(4)旅行の総括:アンダルシア地方、パラドール、レンタカー、グアダルキビル川、夏時間、スペインの食事、書くのが好き... 1

 

 

旅行日記

 

2011.05.08. スペイン・アンダルシア旅行(1):旅行の準備、エール・フランス航空、マラガで時差調整、グラナダのアルハンブラ宮殿、乾燥したスペインの大地、コルドバの日曜日

  

A.旅行の準備

 

5月2日から10日間スペインのアンダルシア地方へ旅行した。この地方は711年にイスラム教徒が侵入して以来、1491に「レコンキスタ」が完成するまでの7〜8世紀に渡ってイスラム文化が繁栄して、またコロンブスの新大陸発見などの中南米への移住の中心になったところだ。旅行の話はワイフから去年からあり、飛行機や「パラド−ル」(スペインの故城などの景勝地にある半官半民ホテル)は彼女がおもにインターネットで6か月前に予約してくれていた。私はワシントン・アービングィングのアルハンブラ物語を読んだりして、心構えだけをした。この本はイスラムの歴史が残るこの地方がまだ知られていない19世紀前半に、それを発見したということで有名で、私の高校時代の馬場久吉先生が岩波文庫の『アルハンブラ物語』旧訳(1949年)をしているので身近に感じていた。本の内容は著者がロシア人の友人と馬でこの地方への旅をして、荒れ果てたアルハンブラ宮殿に滞在するような大変退屈な話で、速読をしただけであった。ワイフは小西章子著「イスラム・スペイン千一夜」を熟読していた。ガイドブック「地球の歩き方、スペイン 201011」を入手したのはいうまでもない。

 

旅行の前日に家で旅行に持って行く衣服を自分で洗濯した。ワイフにおそわって洗濯機で水切りをしたが、セーターが特にきたなくて何年振りかに洗ったに違いない。夕方、時間があったので家の近くのBic Camera店で旅行には関係なく、USB接続Blu-rayディスク読み書きドライブ(1万8千円)とUSB3.0PCカード(6千円)が最近出たが、ドライブはまだUSB2.0対応で書くのが遅いと思うので、近い将来USB3.0対応のドライブが出るまで待とうかなどを推測しながら値段を調べたりして遊んだ。 (2011.05.03.)

 

B.エール・フランス航空

 

日本からスペインへは直通便がないので、東京発パリ行き、パリ発マラガ行きのエール・フランスを利用した。成田空港でチェックインする時に、ワイフと前後の通路側の席を予約したのに、飛行機がAirbus A380530人乗り)からBoeing 777-300 ER320人乗り)へ変更されてそうした席がなくて、片側3人の窓側席になっていた。出発までに窓側席を探すように強く頼んでいたら、登場ゲートで呼び出しがあり、ビジネスクラスにしてくれたので、大変快適だった。飛行機に乗る時にフランスの新聞、Le MondeLe FigaroLa TribuneLiberationなどを取って、丁度オサマ・ビン・ラディンがアメリカ軍に射殺された翌日の新聞で、「La mort de Ben Laden: «Justice est faite»」(Le Monde、ベン・ラデンの死:正義が行われた)というような調子だった。13時間くらいの飛行だったので、前から構想していた「我が両足に捧げる歌」を持参のノートパソコンで書いたりした。

 

ランチはまずシャンパンか赤ワイン、前菜が出て、私はポートワインとブルゴーニュの赤ワインも飲み、食事はビーフステーキがもうないといわれ、舌ヒラメか鶏の胸肉のチョイスだった。飛行時間13時間のうち4時間くらいは寝かされて、パリ到着寸前にルパ(ミールサービス)も出て、ホタの貝柱かフォアグラ・パスタだった。パリのシャルル・ドゴール空港で1E登場口から2Dまで延々と歩いて、そこで4時間待ち時間で、France Caféでビールを飲んだ。定時の2050発のヨーロッパ航空Air Europa)の便(エールフランスとの共同便)でスペインのマラガ(Malagaの空港から市内のホテルへタクシーで着いたのは(20ユーロ)、もう夜の12時を回っていた。マラガはスペインの南西部にある、地中海に面した町で、「コスタ・デル・ソル」(太陽の海岸)の中心都市。季節を通してドイツ人、イギリス人などが観光に到着するところで、空港にはいろいろな標識がドイツ語、英語、スペイン語の順に書いてある。会社の先輩が退職してすぐマラガへ居を移したので、どうしてマラガへといぶかったが、あらゆる国々から人々を受け入れる素地があったのか。 (2011.05.04.)

 

C.マラガで時差調整

 

 

 アルカサルから見たマラガの港

時差で朝早くからベッドの中で目覚めていたが、やっと6時に起きだしたが、外は暗くて、夏時間が始まって間もなくからか、7時ころやっと明るくなった。マリア・サンブラーノ鉄道駅(Estacion de Malaga Maria Zambrano)に隣接したホテル(Hotel Barcelo Malaga)なので、駅ビルに行き、そこのレストランで朝食。9時ころにホテルを歩いて出発して、大きな川にかかる花が植えてある橋(Puente de Tetuan)を越えて、街の自慢らしい大きな通り(Alameda Principal)から港の近くを通り、小高い丘を目指した。そこにローマ時代の砦をイスラム教徒が改造したアルカサバ(Alcazaba)という城塞があり、アラビア風のきれいな噴水や中庭もある所と分り、そこを出て港や闘牛場などを見下ろしながら丘をさらに登り、途中イギリスから来たという夫婦とおしゃべりをして(闘牛がいいか悪いか・イルカ漁は北アイルランドの紛争など)、ヒブラルファル(Gibralfar)と呼ばれるもう一つの要塞へ出て、そこは地中海から山まで、四方がすばらしい眺めだった。

 

丘を下りたところに、右側の鐘楼しか完成していない巨大なカテドラルがあり、近くにピカソ美術館もあったので、そこを少し覗いた。シグロ広場(Plaza Siglo)から少し入ったところの小さなレストランで、12:45くらいからワイフとゆっくり1時間以上かけて、魚のフライと白ワインで昼食し、地中海の英気をもらった。ホテルへ来た道を歩いて帰るつもりが、太陽が動いたせいで迷いに迷って、やっと大きな川に出会えて、なじみの花が植えてある橋を通って、途中スーパーソル(SuperSol)という小さなスーパーで食料品を買ったりして、16:00ころホテルへ帰った。私はインターネットで少し遊び、それから居眠りをして、20:00ごろ少し起きたが、また眠ってしまい、時差調整のはずの1日はすぐ終わってしまった。 (2011.05.05.)

 

D.グラナダのアルハンブラ宮殿

 

 

 アルハンブラのナスル朝宮殿で

今回の旅行ハイライトのグラナダで、2日目と3日目を過ごした。Auriga Crownというレンタカー屋さんに予約しておいたので(世界的に知られたハーツやヨーロッパなどより半値だった)、まず朝9時にマラガ駅・バスステーションそばの店へ行き、結局オペルのCorsa 1200新車を借りて、マラガの町を抜け出すのに苦労したのち海岸に沿ってグラナダへ向かい(直接行くのも海岸を通って行くのも、同じように町を出る)、山裾をA7/E15(地中海自動車道路Autovia de la Mediterrane)をコスタ・デル・ソルの海岸を見下ろしながら快適に飛ばし、Motrilという町で海を離れて山へ向かい、ここでLas Alpujarasというイスラム王の終焉の地へ少し寄り道して(あまりお勧めではない)、シエラネバダ山脈の雪山を越して、グラナダの盆地と町へ入った。オペルは小型で快適だったが、ヨーロッパはすべてマニュアル・シフトなので、私がすべて運転する予定で、しばらく5速があるのが気付かず、またバックはボタンをしてから入れるのが分らず出だしは苦労した。

 

町の手前で迂回高速道路を右の方へアルハンブラ(Alhambra)で出て、「アルハンブラ宮殿」構内にあるパラドールへ到着。(この日の走行距離は260q。)そこのカフェテリアの屋外でビールを飲んで、谷の向こうの庭園を見やりながら昼食後、構内のローマ風・アラビア風庭園をみてから、すぐ町へ下り、目抜き通りのレジェス・カトリコス通りにある日本語情報センターへ。翌日のアルハンブラ宮殿見学券を頼んでおいたので、そこの人と会い、近くの自動販売機にいって券を受け取る。カテドラル(パイプオルガンが4セットも完備!)と付属の王室礼拝堂へ行き、スペインのイサベラ女王とフェルディナンド王は最後にイスラム王を追い出したこの地が好きで、この礼拝堂に埋葬されていることを知った。ワイフがEl Corte Ingles百貨店で買い物をしたいといいだして、延々と目抜き通りをくだって行き、私は疲れ果ててその店の外にあった椅子で休息、時差もあり居眠り。夕食をそのあたり(プエルタ・レアル)の野外に椅子があるカフェバーで食べた(おいしくなかった)。タクシーで宿に帰り、もう9時を過ぎていたが、外へ散歩に行き、ライトアップされたナスル宮殿の脇の見晴らし台から、谷をへだてて向かいのアルバイシンや日暮れ中の西の空を見てから寝た。 (2011.05.07.)

 

翌日はあいにくと前夜から雨、時々大雨。朝8:30にナスル朝宮殿に行き、14世紀に完成したという数々の豪華な室内装飾と中庭を見て、獅子がある中庭は工事中で無愛想だった。雨宿りしながらの見学で、ワシントン・アービング(Washington Irving注)が滞在した部屋がなかったなと思い、出口からもどって、アルバイシン地区を見下ろす渡り廊下の近くでやっと見つけて、写真撮影。それから、西側のアルカサバという要塞に上がって、次にカルロス5世の建物のショップでお土産品をのぱぞいた。そこから東へずっと歩いて、ヘネラリフェ(Generalife)の庭園を見て、特に庭から庭への階段の手すりにシエラネヴァダ山脈からの水を流したり、噴水が中庭に音をたてて出ているのが、印象的だった。昼ごろ雨は上がって、またカフェテリアへ戻って、昼食にした。

注:アルハンブラ宮殿はアービングが(おそらく外国人で始めて)そこを訪れて英語で1832年に『The Tales of Alhambra』を出版してから世界的に有名になり、この本を我が高校の社会科の馬場久吉先生が学生時代に『アルハンブラ物語』(1949、岩波文庫)翻訳されていたので、私はこの宮殿をいつか見たいと思っていた。

 

E.乾燥したスペインの大地

 

3日目の午後、午前中の雨はほぼ上がり青空ものぞいて、車でグラナダを出発して、コルドバへ向かった。A44(グラナダ〜ハエンJaen〜マドリッド)をしばらく走ってから、N432へ入り、Cepsaガソリンスタンドで満タンにしてから、山を上がり、峠へ出て下りと思ったら、コルドバの少し手前まで延々とスペイン南部の乾燥した高原台地をひた走った。岩の丘が続いて、山の上までオリーブ畑があり、その中にこんなところにどうしてあるのだろうと思うような小さな石壁のきれいな町が大きな教会堂と一緒にある。コルドバ近くなると小麦が出てきて、ほぼ黄色くなっていて、収穫も間近い。

 

運転しながら、遠くに山並が見えて、そのこちら側にグアダルキビル川が左右に流れてそこにコルドバの町があるのだろうと思ったらその通りだった。予約してあったパラドールは街の北側にあることは分っていたが、高速道路がある南側から東周りという道順がうまく分らずにてこずり、北山の上かと1時間半ほどウロウロした末に1800になってやっと着いて、今日は210km運転したことになる。 (2011.05.07.)

 

F.コルドバの日曜日

 

スペインの4日目は日曜日、抜けるような青空。朝食付きなので8時にホテルのカフェテリアで豪華な朝食を食べた。コルドバのパラドールはParador de la Arruzafaとも呼ばれ、後ウマイヤ朝をコルドバで開いたアブド・アッラフマーン1世がここに最初の宮殿を開いたところで、カフェテリアから続いたテラスで、コルドバの平野を一望のもとに見下し、待ちの向こう丘には麦畑が広がるような景色で、子供の遊び場も水泳プールもあり、土地の人たちの格好の集会場になっている。朝食後近くのバス停から13番バスで(1ユーロ15)街中に出て、そこから歩いて入り組んだ道路のもとユダヤ人街を通り、「メスキータ」(もとモスクのカトリック大聖堂)へ行くと、レコンキスタ後にそこの一部に建てたカテドラルの11時のミサを告げる鐘が鳴り響いたので、急いでカテドラルに入って着席した。大きな豪華なカテドラルで、合唱付きのミサで、式次第はすべてスペイン語だったが、私が通常日本で行っている聖公会教会の式次第とほぼ同じだったので大体分った。参加者同士の平和のあいさつは両隣共に英語で「Peace be with you!」といい合ったので、この日のミサの参加者はほぼ観光客で、右隣は話しかけたら英国から来ていた。パンと葡萄酒の後者はなくて、パンのみだった。カテドラルのそばに売店があり、そこでミシュランの地図「Andalucia」(6ユーロ)とJ.アウグスティン・ヌニェス監修の「アンダルシア・ビジュアルガイド、アンダルシア散策」日本語版(Edilux S.L.2003年、15ユーロ)を買った。前者1:400 000は日本で買った地図「Euro Map Spain & Portugal」(1:800 000)より詳しくてその後はこれを使い、後者は日本語が少し難があるが、歴史的な背景も書いてあり、大変面白い。

 

 

 コルドバのローマ橋の下を流れるグアダルキビル川

ミサが終って、ローマ橋でグアダルキビル川が前日の雨で灰色(まわりの石灰石の色?)に濁っているのを見て、この旅行の後半はこの川の下流方面へ、カルモナ、セビーリヤ、カディス(無敵艦隊が出港したところ)、河口のドニャーナ国立公園へと下る予定。

 

パティオ祭り(李妍

アルカサル(アラブ庭園のあるところ)の方へ歩いて行くと、今週「コルドバのパティオ祭り」(Festival de los Patios cordobeses 2011)をやっていて、これは町の個人の中庭を花できれいに飾るコンテストで、大勢の観光客と地元の人たちに交じって3軒くらいをハシゴした。昼食を歩道にテーブル・椅子を並べたところで食べ、隣のスペイン人とフランス語で話すハメになり、なぜか聞いたら(以前の?)奥さんがフランスのノルマンディ出身だという。ユダヤ人街をまた通り、ミラフローレ橋のたもとのポトロ広場(「ドンキホーテ」に出てくる旅籠屋「ポトロ」があるところ)を目指したが、またローマ橋に出てしまい、見逃した。そのうちに疲れてしまい、タクシーに乗って16:00ごろホテルに帰った。ホテルで休んでモンティジャ(Montilla)のワイン祭りに行こうとも思ったが、A45高速道路をマラガ方面へ1時間くらい遠くに行かねばならないことが分かり、あきらめて、ホテルのフロントで明日の観光計画を相談したりして休んだ。 (2011.05.08.)

 

2011.05.12. スペイン・アンダルシア旅行(2):小さな町カルモナ、セビーリヤは大都会

 

A.小さな町カルモナ

 

 

 アモドーヴァル・デ・リオ城址で

5日目は月曜日で、この日も快晴、博物館や遺跡などが閉まっていることが多いので、朝9時少し過ぎにコルドバを出て、グアダルキビル川に沿ってセビーリヤ方面のカルモナ(Carmona)へ行くのに、高速道路A4(E5)ではなくて、旧国道N431を通ってゆくことにして、でも毎時80〜100キロのスピードで行けた。スペインの平野の多分典型的な農村風景で、麦やオレンジを沢山作っている。途中アモドーヴァル・デ・リオ(Amodovar de Rio)というところの小高い山に西洋式古い城があると聞いていたので開門時間11:00まで待って入り、四方八方に広がる農村風景を楽しんだ。折から幼稚園の生徒が沢山ビニールの中世の服装に身を包んで遊びに来ていたので、それを写真・ビデオ撮影した。次にパルマ・デル・リオ(Palma del Rio)という小さな町に入って、古い教会を見て、そのあたりのバール(bar)で昼食。そこを出て、ローラ・デル・リオ(Lora del Rio)を通り、そこからN457でカルモナまで行き、15:00にはそこのパラドールへ着いた。本日の走行距離、120km。前の2つのパラドールでは部屋からの景色はよくなかったが(つまり安い方の部屋を選んだが)、今回は通常の部屋から遠く平和な田園風景が見下ろせる。

 

カルモナのパラドールは街のセビーリヤ門をくぐって、入り組んだ街を上へあがって、一番奥のアルカサル(砦)にあり、ここは日本の「天正少年使節団」や支倉常長の「遣欧使節団」も逗留し、イサベル女王・フェルディナンド王も滞在したというところという。少し休んでから食糧の買い出しに街まで下ったが、日差しが強くて閉口し、家屋の影を選んで歩く始末で、スペインの商店などが14:00ごろから閉店してシエスタになり、17:00ころからまた開店して20時ころまでやっている理由が少し分った気がする。スペルメルカード(食料品店)El Jamonが分りにくいところにあってウロウロしたので書いておくと、サン・フェルナンド広場からマルティン・ロペス小道(Calle Martin Lopez)を50mくらい上がったところの右手。今回も疲れていて、20時からの食事をレストランで取る勇気はなくて、部屋でビールとおつまみとりんごの簡易食だった。おとといの晩から全パラドールのインターネットが不通で私は元気がなかったが、ようやくつながりだした。 (2011.05.09.)

 

6日目のパラドールの朝食は、眼下に農場が広がるすばらしいレストランで、日本人のツアー客も15人くらい来ていた。隣のスペインの人たちがパンにオリーブ油をつけて食べるのを発見して、パラドールのテーブルの上にはいつも「Hojiblanca」、「Arbequira」と書いた瓶がいつも2つ置いてあるので、パンにつけて食べたら意外とおいしかった。午前中は、結局カルモナの街を探索することになり、メルカード(市場)と呼ばれる個人商店が軒を並べるところを見て、博物館は西ゴート族の歴史を少し学んだ以外は面白くなくて、コルドバ門へ行き、そこの外側がすばらしい花畑になっているところでしばし遊んだ。

 

B.セビーリヤは大都会

 

12時近くなってカルモナを出発して、A4(E5)高速道路をひた走り、高速から出てセビーリヤの街に入ったらダウンタウン(centro ciudad)まで途中カンザスシティー通りにジャカランダ並木の紫の花が満開なのを見て、30分くらいかかって到達。本日の走行距離、42km。ここはビゼーの歌劇「カルメン」、ロッシーニの「セビリアの理髪師」くらいでしか知らない小さな町と思っていたら、どうやら百万都市で、アンダルシア州の州都で、マドリッドとバルセロナに次ぐ大都会だというから、日本の東京・大阪に次ぐ名古屋のような町らしい。町の中央のカテドラル近くのサンタクルス(もとユダヤ人街)のそばのホテル(Hotel Casa 1800)を探すのも、荷物を下して駐車場へ車を持って行くのも細い道で大変だった。さっそく昼食するところを探しに街をウロウロしたら、結局アルファルファ広場の歩道の席に腰を落ち着けて、ビールを注文して気付いたらイタリア料理店と分り、私はリソットのアラビア味付けを注文して食べた。

 

 

 セビーリヤでフラメンコ

ここへ来たら「フラメンコ」踊りを見たいとワイフ共々思っていたので、ホテルの受付で聞いて、フラメンコ博物館に予約してもらい、19:00からやっている一時間の公演を見た。女性も男性も(Luna Fabiola & Sergio Gonzalez)大男・大女ですごいエネルギッシュな踊りで、ギター(Juamna Torres)もよく、歌(Jesus Flore)もよく、感動した。20人の列が10列あるような小さなホールで、2列目で見たから、舞台から3mくらいのところでの観覧だった。右隣りはイタリア人グループで、左隣りはインドネシアの女性2人だった。フラッシュをたいてはいけないといわれたがいい写真が撮れ、またビデオはお断りと言われたが、中国の習慣で(つまりそういう禁止条項は気にしない)、ビデオ機能付きカメラで動画も少し撮った。帰りがけにまた歩道のテラス(Robles Tapas)でビール(地元のクルスカンポCruzcampoHeinekenの子会社になっているらしい)を飲んで、簡単な食事をしてホテルへ引き挙げた。 (2011.05.10.)

 

C.ジャカランダの花が咲く5月

 

セビーリヤの2日目は、朝ホテルの食事が一人13ユーロもするので、カテドラルに東側にあるBar Ganzaloというところでコーヒーと味付きパンを2人10ユーロで済ました。アルカサル要塞・宮殿の9:30の開館を待っていって、観光。カテドラルが11:00に開館なので、待ち行列に並んで、前のイタリア人夫婦とはあまり話ができなかったが、うしろのドイツ人はシュツットガルトからで、私はそこのドイツIBMの本社とボブリンゲン研究所へいって、そこのメルセデス・ベンツ工場も見学したので、いろいろと話した。カテドラルにはコロンブスのお墓もあり、ローマのサンピエトロ寺院、ロンドンのセントポール寺院に次ぐ大きさだそうで、ヒラルダの塔(鐘楼)にも坂道を登った。昼食はきのう夕食を食べた歩道カフェーへまた行き、白・赤ワインのグラスを飲んで、冷たいタパス(tapas、小皿料理)3皿と暖かいタパス3皿を食べたら、もう14:00近くなっていた。

 

 

 セビーリヤ大学

午後はスペイン人並みにシエスタを取ることにして、ホテルで昼寝をして、17:00に街中の散歩に出発し、歩き始めはまだ暑い。歌劇のカルメンが働いていた国営タバコ工場がいまはセビーリヤ大学になっているのを見て、「地球の歩き方」にはグアダルキビル川と書いてあるが実際にはアルフォンソ13世運河に沿って下流に向かい、黄金の塔を見て、トリアーナ橋で写真を撮って、みんながカヌーを漕いだり、岸辺を自転車に乗っているのを見て、それにしても川に沿ってジャカランダの花が咲く5月だ。次の橋で西の方へ渡って、私は本来のグアダルキビル川を見にいったが、ワイフはそこで川風に吹かれて休んだ。二人でもとのトリアーナ橋に戻り、El Corte Ingles百貨店でオリーブ油などの買い物をして、アイスクリームを食べながら椅子で休息をして、市役所前のヌエバ広場でフェルディナド7世の騎馬銅像を見て(やっと騎馬像の写真が撮れた!)、すべて歩いて21:00ころホテルへ戻った。今晩は夜寝る前に衣服の洗濯をした。 (2011.05.11.)

 

セビーリヤの3日目は、朝はきのうの朝と同じところで朝食を食べ、レンタカーを駐車場から2日分38ユーロを払って受け出して、このスペイン第3の都会からの脱出方法をホテルで聞いて、この町はまた来てもいいなと思いつつ、一路カディス方面へ車を走らせた。私はセビーリヤあたりのスペインの大学にでも、留学でもう一度来たいと思った。日本の友人のお母さんが中南米に移住した息子の孫と話がしたいのでマラガへ80歳で留学したことが話題になった。調べてみると、ここらあたりで話されるスペイン語はマドリッドあたりの標準語(カスティーリャ語)とは違うアンダルシア方言で、中南米のスペイン語はアンダルシアからの移民が多かったので、おおむねアンダルシア方言に近いというので、お母さんのマラガ留学はいい選択だったのだ。なお、セビーリヤ滞在2日目(5月11日)夕方、スペインの東南部、アンダルシア州の隣の州(中心都市はムルシア)で大きさが5.1の地震があり、中国の友人からのEメールで始めて知った。300〜400キロも離れているところで、我々は何も感じなかった。旅行中BBCテレビも見られず、日本の大震災のことも忘れていたが、スペインのテレビを見ていると地震は本当に悲惨で、スペインでは1995年のグラナダの地震以来の死者が出た地震という。

 

2011.05.16. スペイン・アンダルシア旅行(3):アルコスのパラドールは最高、ヘレスの馬祭り、ドニャーナ国立公園、マラガヘ戻る

  

A.アルコスのパラドールは最高

 

 

 アルコスのパラドールからの眺め

セビーリャを出て、高速道路A4(E5)をカディス方面へ行き、もう高速道路は飽き飽きしたので途中でLas Cabezasという町で国道A371へ出て、眼前にシエラ・マルガリータ(1173m)が見ながらVillamartinへ向かい、途中湖のそばのボルノスという白亜のきれいな街を過ぎ(「地球の歩き方」には「白い村」を大騒ぎして書いているが、白い村などはどこにでもある!)、そこからアルコス・デ・ラ・フロンテーラArcos de la Frontera)という町のパラドールへ行き、2晩泊る。(「デ・ラ・フロンテーラ」(de la Frontera)というのはキリスト教徒から見て、イスラム教徒との境の村・町を指すようだ。)本日の走行距離、113km。パラドールはグアダレーテ(Guadalete)という小川が逆Sの字のように浸食してできた崖の上にあり、25部屋しかないが、テラスがある部屋に変えてもらって風景は抜群によくて(バスルームの浴槽からも眼下の景色が見えた!)、最高のパラドールだ。ここのレストランのの昼食は13:30からで、Jerez Manzanilla (Sherry Camomile)をおまけで出してくれて、これはカルメンがドン・ホセを誘惑する時に注文したものだそうで、ワイフはご満悦。

 

午後2時間くらいからシエスタをした後、街中のInformacion turistica案内所へ歩いて降りていって翌日のヘレス・デ・ラ・フロンテーラへ行くバスについて聞いて、バス停を見に行こうとしたが、元気がなくなり、どこからもいい景色以外は特に何もない街だとも分った。またえっちらおっちら登ってホテルへ帰る途中、ここの街に駐車してある車を見たら、フランス・ドイツ・日本(Toyota & Nissan、両社ともバルセロナに工場があるようだ)の車以外は、アメリカ(Ford Fiesta & Focus)、韓国(Kia)、チェコ(Skoda Octavia & Favia)、スペインVolkswagenSEAT Ibiza, Cordoba & Toledo)などで、フランス・ドイツの乗用車が多い。少し旅の疲れた出たのか、ほぼ何もしないで、ブラブラしてから、就寝。 (2011.05.12.)

 

B.ヘレスでは馬祭り

 

きょう(10日目)はヘレス・デ・ラ・フロンテーラJerez de la Frontera)へいってきた。シェリー酒(Sherry)の産地として有名なあのヘレスだ。アルコスのパラドールからタクシーで町のバスステーションまでいって(5〜6ユーロ)、9:00発のバスに乗り、大きな快適なバスで(料金は1ユーロ20と馬鹿に安い)、そこから30キロ・40分でヘレスの町の鉄道駅の隣にあるバスステーションに着いた。町の中心に向かい、またまたアルカサル(もとイスラム教徒の砦)があり、もう見る気もしないで、Oficina municipal de turismo案内所へ寄った後、さっそく王立アンダルシア馬術学校の12:00からの馬術ショウをインターネットで予約してあったので見に行った。このあたりはアラブ種と地元の馬の交配種であるアンダルシア馬が有名で(馬の疫病がはやった時にカルトゥハ修道院の一群だけが残ったのでカルトゥハ馬ともいうらしい)、辛口のシェリー酒Tio Pepe社のブランド)を飲みながら、1時間半のショウを楽しんだ。そのあたりにシェリー酒で有名なサンデマン(Sandeman)のボデーガもあり、そこを覗いたりもした。以前アメリカに住んでいるころ、私はシェリー酒が大好きになり、よくサンデマンのシェリー酒を飲んでいたのを思い出した。

 

 

 ヘレスの馬祭りのきれいどころ

ヘレス恒例の「馬祭り」(Feria del Caballo)は、そこから20分歩いたところにお祭りの会場(Recinto Ferial)で行われると案内所で聞いたので、歩いていくと、もう飾り立てた馬車が街を通っていた。大きな公園の中が十字を時計回りに騎馬・馬車が通れるようになっていて、私らはその周りのバーに陣取って、みなさんが思い思いに歩いたり、恰好を付けたりするのを見たり、写真を撮ったりした。女性の多くはフラメンコの時に着るような裾に沢山刺繍をほどこした服装をしていてきれいだ。全体がルミナリオのように電飾がほどこされているのを見たので、夜は多分さらにきれいなのだろうが、いまは気温も39℃にもなり、我々はビール2杯を飲んだ後、暑さをこらえきれずに、バスステーションに向かって歩いて、そこから16:00発のアルコス経由マラガ行きバスに間に合って、アルコスへ帰った。この日の王立アンダルシア馬術学校訪問が大変気に入ったので、私はWikipediaへ記事を寄贈するのが趣味なので、そこへ「王立アンダルシア馬術学校」ページを写真も入れて作って、日本へ帰ってから「馬祭り」も「アンダルシア馬」のページも簡単だが作った。 (2011.05.13.)

 

C.ドニャーナ国立公園

 

 

 ドニャーナ国立公園で

スペイン旅行12日目(土曜日)は、朝食後9:30にアルコスのパラド−ルを出発し、おととい砦に入ったところは細道だったが、出るところはさらにすごい細道で、途中車を切り返すところが一か所ある難所だった。きのうと同じ地方道をヘレス近くまで行き、そこから高速道路A4でまずセビーリャを目指し、道路の真ん中と両側は夾竹桃がピンク・白・赤に咲き乱れ、黄色の花も咲くすばらしい。セビーリャでグアダルキビル川の新しい大きな橋を渡って、10:45には西へ高速道路A49(E5)を入るところに「ポルトガルヘ33q」(Portugal 133km)と書いたところがあり、何か感激した。ここでこの旅行で始めて交通渋滞に巻き込まれ、土曜日の午前中は大都市から海岸方面へ行くのはまずいとワイフと議論したが、前方で車同士が聖徳したあおりで、その交通渋滞でキャンピングカーがさらに動かなくなる事故が重なったようで、1〜2時間のロスをした。

 

リオ・ティント(赤い川)を渡り、ウェルヴァ(Huelva)という大きな街へは入らずに、手前のサン・フアン(San Juan)で地方道へ下りて海岸の方面へ出る途中のパロス(Palos de la Frontera、コロンブスがイサベラ女王に謁見する契機となった修道院がある町)に大きな化学工場が見えて、すごい化学薬品のいやな臭いの空気を通り、そのあたりはビニールハウスで沢山のイチゴを栽培しているので、大丈夫かなと思った(翌日ホテルでこれが出てきた)。すこし行ってマサゴン(Mazagon)のパラドールへ着いた。ここは地中海でなく、太平洋を見下ろす海岸にあり、きれいな屋外プールもある、新しいいいパラドールだったが、特に歴史があるサイトに立っているわけではない。ホテルで昼食を食べていると、テラスの屋根にツバメが来て、さかんに巣を作っているのどかさだ。スペイン語でツバメはラ・ゴロンドリーナ(la golondrina)というとウェイターから聞いて、フランス語ではリロンデル(l’hirondelle)だから、似ていないこともないと思った。このあたりは東のアダルキビル川と西のリオ・ティント川とに挟まれた河口地帯で、広大な沼沢地のドニャーナ国立公園になっている。

 

少し午睡をしてから、パラドールから30分くらい車で「ドニャーナ(Doñana)国立公園」入り口のアセブチェ(Acebuche)へ行って、17:00から始まる車による国立公園の自然観察ツアーに参加した。ひとり27ユーロで参加料金が高かったが、21人乗りの大きなタイヤのバスで4時間たっぷり・80kmのコースで、砂丘に止まって写真を撮らせてくれたり、沼地を見たり、シカが2種類(Red deer & fallow deer)、黒イノシシ、沼地の向こうにフラミンゴを見て、グアダルキビル川の河口の説明を受けて、対岸はコロンブスもマゼランも大航海へ出帆したサンルーカル・デ・バラメダの港が見えた。最後は海岸の砂浜を毎時60〜80キロで飛ばして帰り、大サービスしてくれた。「地球の歩き方」にはこの国立公園をサンルーカル出発の船で回るコースが書いてあるが、途中で切り上げたりで、サービスが悪いとインターネットに書いてあったので、この陸上からのツアーの方が正解だったと思う。パラドールに帰ったのが21:30になってしまい、落日の写真を撮るのにやっと間に合った。この日の運転距離は、286q。そのあとプールと大西洋で泳ごうとしたら、夜気が寒くて、泳ぎはあきらめて、お風呂に入って寝た。 (2011.05.14.)

 

D.マラガヘ戻る

 

スペイン旅行の最後に日は、朝7:30ごろ目覚めたら、潮騒だか風の音がして、感じよかった。8:00から朝食を食べ、これにはきのう見た化学工場の隣のイチゴが出て複雑な気持ちだったが、おいしかった。9:30にパラドールを車で出発してマラガ飛行場へ向かう。この日も快晴で、地方道から高速自動車道路A49(E5)に入ったころは車内が29℃にもなり、この日この旅行で始めて空調を使った。セビーリヤへ行く途中にRepsolガソリンスタンドで15分休み、大都市セビーリヤを抜けるのに道を間違えて、もとへ戻ったと思ったら幸い行きたい方向に出て、そこからA92を東へひた奔り、12:30にはBPガソリンスタンドで22Lくらい95ガソリンを足して、飛行場で車を返すころはガソリンメーターが半分より少し多い状態になるだろうと推測。少し行くとアンテケーラ(Antequera)という山々に囲まれたすばらしい町を過ぎて(山登りにまたここへ来てみたい!)、山地のヴィアドゥクト(高速道路の橋)を登ったと思ったらもうマラガヘ向かって下りだしたので、そこの途中のRepsolガソリンスタンドへまた寄り、これまで食べそこなっていたパェリャをタパスで昼食。実はこのころカメラをホテルへ忘れてきたのに気付き、スタンドのおじさんに公衆電話のかけ方を教えてもらい、50セントで電話したら、見つかったということで、中国へ送付してもらうことにした。写真は毎晩パソコンへコピーしていたので、その面では被害は少なかった。

 

マラガ空港は街の少し西のトレモリーノス(Torremolinos)というところにあり、レンタカーをチェックインして、きょうの運転距離は345qで、この旅行の総運転距離は906kmだから、日本の東京〜岡山、中国の大連〜ハルビンくらいだろうか。エレベーターで上へ上がり、荷物をガラガラ引いて行くともう空港の出発口で、マラガ17:10発Air Europeパリ行きには十分間に合い、この航空会社は飲み物もすべて買う仕組みで、私はShandy Cruzcampoという低アルコール(1%)ビールを飲んだ。出発から2時間後にはパリのシャルルドゴ−ル空港に着いて、荷物は航空会社が転送してくれたので、この大空港ビルの1Dエリアから真ん中の鉄道駅を過ぎて2Eへ荷物なしに歩いて、23:35発Air France東京成田駅には十分間に合って、お土産の買い物をした。今回は行きの時のようなビジネスクラスへのアップグレードはなく、その代わり隣の席のフランス人の女性(ナンシー出身、生物学者)がニューカレドニアの息子の所へ遊びに行く途中ということで、一生懸命にフランス語で交流した。12時間後の翌日18:30に成田に着いて、19:30ごろ成田空港発のJRに乗って、自宅へ帰ったのは22:30を過ぎていた。 (2011.05.16.)

 

2011.05.19. スペイン・アンダルシア旅行(4)旅行の総括:アンダルシア地方、パラドール、レンタカー、グアダルキビル川、夏時間、スペインの食事、書くのが好き

 

A.アンダルシア地方

 

 

 スペインのアンダルシア地方

スペインへは以前あったイベリア航空のマドリッド直通がなくなり、いま日本から直通便はない。それでパリ経由のエールフランスになったが、同じスペインへ行くならと、生来の反骨精神も加わって、大都会のマドリッドのプラド美術館やバルセロナのサグラダ・ファミリア聖堂を見てではなくて、イスラム文化と中南米植民地獲得の歴史があるアンダルシア地方へいってきた。私のスペイン語はアメリカ在住のころメキシコへ行き損ねてから、完全にダメで、ワイフが1と月NHKの初級講座で習っていたのが、大いに(?)役立った。スペインというと小説「ドンキホーテ」と航海者マゼラン、コロンブスと、イスラム軍の全ヨーロッパ侵入はシャルル大帝がポアティエの戦いで防いだくらいしかおぼろげな知識がなかったが、アンダルシアはそういった歴史が観光しながら学べて、面白かった。もう少し時間的な余裕があればジブラルタル海峡を渡ってモロッコに足を踏み入れられたが、それはかなわなかった。

 

スペインはEUの中でも、ギリシャ・アイルランド・ポルトガルに次いで経済状態が悪いと聞いていて、最近マドリッドやバルセロの日本人観光客は注意するようにNHKの安全情報番組でもやっていて心配したが、アンダルシアはやはり田舎だからだろうか、そうした安全上の問題はないように感じた。また、おとといヘレスの馬術学校で右隣に座った夫婦は、ドイツのボーデンゼーあたりから来た人で、スペインのアリカンテに家とヨットを持っていて、そこはコスタ・ブランカの海岸あたりだといっていた。マラガ近くはコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)と宣伝しているのは知っていたが、持ち合わせのスペイン地図でみたら、スペインの地中海沿岸は南西のコスタ・デ・ラ・ルスから南東のバルセロナあたりまで、様々な素敵な名前の海岸があり、どうやらヨーロッパ中の退職世代がスペインの南海岸へ別荘を持つ(あるいは持ちたいと思う)らしいく、まあアメリカのフロリダ州、ニューメキシコ州のようなところだ。

 

B.パラドール

 

私たちは旅行中「パラドール」(国立の宿泊施設)を多用して、11泊中7泊利用した。景勝地のもと砦や宮殿をそのまま利用するか、そういった土地に新しく立てられており(コルドバのケース)、値段は比較的高くて予約は半年前からしなければならないが、おおむね見晴らしがよくて、バスルームには日本人にはなくてはならない大きなバスタブ(浴槽)もあり、大変気持ちがよかった。アルコスのパラドールは部屋やバルコニーからだけでなくて、バスタブからも眼下の景色が見えて最高だった。気流に乗ってツバメが舞い、時々ハトも来てのどかな反面、そこをトンビやタカの類が徘徊して、生存競争もあり、眼下には麦畑・野菜畑・オリーブ畑と小川にローマ時代風の石橋、遠くに低い山も見える絶景だった。ただし、パラドールを多用するとあちこちにあるアルカサルと同様にまたパラドールかとなってしまい、もっと少なくてもよかった気もした。いずれにしろ、旅行計画はワイフがやったので、彼女に感謝すると同時に、旅行中はレンタカーの運転に専念した。

 

C.レンタカー

 

 

 スペインのレンタカー会社

私は国外のレンタカーをアメリカとフランスで利用したことがあるが、スペインもよかった。「地球の歩き方」にはハーツなどの名が通った会社を選びなさいと書いてあるが、スペインの比較的大きな会社を選び使ったら、値段も半額くらいで、一週間以上使えば返却は出発点の市内でも飛行場でも追加料金なしといわれて、大変よかった。走行距離に依らない料金設定を選び、ガソリンは自分持ちで、ただしガソリンタンクの半分より少し多めの状態で貸してくれて(満タンではなしに)、返却もタンクの半分より少し多めで返すのが、しきたりらしいことが分り、そのようにした。高年齢者のレンタカー運転なのでバス・鉄道の方が楽には楽で、最初の2〜3日は運転がきつくて疲れ、ワイフにレンタカー旅行はこれで最後かなとも言われたが、そのうちにだんだん慣れて、あと5年か10年はレンタカー旅行もできるだろうとうそぶいた。

 

 

 旅行案内書『アンダルシア散策』

道路地図は日本で『Euro Map Spain & Portugal』(1:800 000)を買って行ったが、コルドバで『Andalucia』(1:400 0006ユーロ)を見かけて買い、こちらの方が詳しくてよかった。ガイドブックは『地球の歩き方、スペイン201011』で済ませ、いつも利用しているLonely Planetシリーズの英文ガイドブックは入手しなかった。やはりコルドバで買った『アンダルシア散策』日本語版(Edilux S.L.2003年、15ユーロ)はスペイン出版の縦長の本で、英語などの版も出ていて、日本語版は日本語に少し難があるが、写真もきれいで、歴史的な背景もよく書いてあり、大変参考になった。

 

D.グアダルキビル川

 

私は40歳になったころにカヌーをやりだして、長良川の川下りなどをしたので、その後各地に旅行するとその土地の川がどうなっているのを観察するのが大好きで、ソウルへいってもハンガン(漢江)にどんな橋がかかっているかばかり見ている始末だ。今回の旅行のテーマのひとつにグアダルキビル川がどう流れているか、どんな橋がかかっているかをよく見て、最上流のハエンあたり以外は、コルドバからセビーリヤ、サンルーカスの河口まですべてを見たが、すばらしい大河で、もうそんな機会はないと思うが一度カヌーで下りたい衝動にかられた。古い橋、新しい斜張橋もいろいろ見かけたが、運転中とて写真が撮れなかったのが残念だった。ウェヴァ近くのリオ・ティント(Red River)もなぜ川床があんなに赤いのだろうか、面白そうな川だった。

 

E.夏時間

 

西ヨーロッパへ旅行すると、夏時間に悩まされる。日本では、標準時子午線(兵庫県明石市)の東に住んでいるせいもあるだろうが、5月ごろで朝は4時半には空が白み始めて、5時には完全に明るくなり、夕方は6時半には薄暗くなり始める。(夏休みには8時半までテニスが何とかできた記憶があるので、もっと遅くまで明るいし、一般に関西では東京より30分ほど遅い。)スペインでは、英国のグリニッチ子午線の少し西にあって一般に遅いはずだが、夏時間のせいで、5月で朝は6時半に白み始め、7時にはやっと明るくなる。最高気温は東京あたらいでは午後2時ころだが、スペインではお昼の13時ころから16ころが一番暑い。夕方は9時半に日没があり、そのあと急激に暗くなり、下に書いた夕食の週間もあり、極東から北旅行者には大きなとまどいがある。もっと北のフランス西部を2年前の夏に旅行した際には、日没は夜10時くらいで、11時くらいに暗くなり始めたのにはびっくりした。

 

F.スペインの食事

 

スペインの食事については、私たちはあのフランスやスペインで夜10時ころから2時間くらいかけて夕食を食べる勇気がなくて、夕食をほぼワインと少しの食べ物で過ごし、あまりコメントする資格はないが、まず(中国での生活が長いせいもあり)パンがおいしい。そしてスペインの人はパンと一緒にバターは利用せず(ジャムはある)、食卓にいつも出ているオリーブ油を付けて食べるが、これはやってみると大変おいしくて病みつきになる。それから、スペイン人は野菜を食べないようで、サラダが出た場面は2回あったが、1回はそこに来ていた日本人ツアー客たちは2・3人が平らげてしまい、我々には回ってこなかった。(サラダ・ドレッシングもやはりオリーブ油と塩だけで、いろいろな種類を工夫する習慣もない。)いろいろな料理を小皿で出す「タパス」(Tapas)というのも、台湾料理みたいでいい習慣だと思う。それから、ワインについては、Cava(スペイン産シャンペーン)、Jerez/SherryRiojaのワインなど、書いたらキリがないので、もうこれでやめよう。

 

G.書くのが好き

 

自分自身に関して面白い発見もした。私は中国内・国外へ旅行にいって沢山の写真を撮るのも好きだが(おもにWikipediaに寄付)、そうした旅行について書くのがもっと好きだ。今回の旅行中に去年書いた作品集を昔の会社の若い同僚が読んで感想を送ってきて、非常によかった、私は文才があるといってくれた。実は文才はないのはよく知っているが(こういうテーマで書いたら面白いだろうというアイデアは沢山あるがそれを実行できない)、嬉しかった。とにかく、今回はPDAを使うのは止めてA4の紙を8つくらいに折って、そこに刻々簡単なメモを取って、ホテルへ帰るとそれを文章にして、少しまとめるとパラドールには無料でWiFiをアクセスしてインターネットが使えるのでMixiの日記に入れていた。3人の友人がよく見ていてコメントをくれたのも励みになり、感謝している。特に「これを読んでいると、自分も一緒に旅行しているようだった。」という主旨のコメントは、感激した。文才はないが、こうして書くのが好きなのだから、続けていこうと思う。 (2011.05.19.)

 

付:スペイン・アンダルシア地方の旅行(短文紹介)

2011年の五一休暇を延長して、スペインのアンダルシア地方(安达卢西亚)へワイフと2人で旅行してきた。私はスペイン旅行が初めてであるが(ワイフはずっと以前イビザ島=伊维萨岛で遊んだことがある)、首都マドリード(马コ里)のプラド美術館(普拉多博物馆)や第二の大都市バルセロナ(巴塞罗那)のサグラダ・ファミリア教会(圣家族教堂)見るよりは、スペインのこの西南部の歴史ある地方を選んで13泊(1泊は飛行機で)の旅だった。

  その歴史というのは、このイベリア人伊比利亚人)の土地は紀元前3世紀ごろからローマ帝国の最西端となりローマ文化がもたらされ、紀元後415年には西ゴート王国(西哥特王国)になり、711からはイスラム教徒が北アフリカから侵入して、後ウマイヤ朝(后倭马亚王朝)下で中世ヨーロッパの暗黒時代に大いに繁栄した文化があった。1469年に「カトリック両王」(Los Reyes Catolicosthe Catholic Queeen & King)と呼ばれるイサベル女王伊莎拉一世とフェルディナンド王子(斐迪南二世)が結婚してスペイン統一と「レコンキスタ」(キリスト教徒によるスペイン奪還收复失地运动)が最高潮に達して、この地方を中心として1491年にコロンブスが、1519年にマゼランがこの地方から大航海に出帆して、アメリカ、特に中南米のスペイン植民地化が行われて、今でもこの地方の方言が中南米で話されている。また、スペインとポルトガルが日本へキリスト教布教を始めた16・17世紀には、遣欧少年使節団と支倉常長がこのアンダルシア地方も訪れている。

我々の旅行は日本からパリへ行き(最近日本からスペイン直行便がなくなったので)、東京からマラガ(马拉加Malagaへ飛んだ。ここはコスラ・デル・ソル(Costa del Sol、太陽の海岸)の中心になる国際都市で、ローマ時代の城塞をアラビア風に変えた遺跡とピカソ美術館を見た。ここでレンタカーを借りて、グラナダGranada格拉纳达)へ行き(アルハンブラ宮殿Alhambra Palace阿尔罕布拉宫)、そのあとはグアダルキビル川Guadalquivir River瓜达尔基维尔河)に沿ってコルドバ(Cordoba科尔多瓦、巨大なイスラム寺院を改装したキリスト教大聖堂、カトリック両王が眠る礼拝堂、花の祭り)、セビーリヤ(Seville塞維利亞,やはりイスラム寺院を改装した世界で3番目に大きなキリスト教大聖堂、コロンブスの墓)、ヘレス(Jerez赫雷斯、シェリー酒=雪利酒、馬祭り)、グアダルキビル川の河口の湿地帯であるドニャーナ国立公園Doñana National Park多尼安纳国家公园)へと回って、またマラガに戻って、総計900キロをドライブした。

  ホテルはパラドールParador帕拉多尔と呼ばれる、古城を改造した半官半民ホテルにおもに泊ったので、大変よかった。この地方に工業はあまりなく、観光業と農業が盛んで、なだらかな丘の上までオリーブ林があり、秋まき小麦がそろそろ収穫時期を迎えていて、ワインとビールは特によかった。スペイン人はパンにバターでなくてオリーブ油を付けて食べる習慣で、フルーツは食べるが野菜はほとんど食べない。いくつか見逃したものもあり、コルドバではローマ橋のそばにあるドン・キホーテDon Quixote堂吉訶コ)が泊ったことになっている旅籠屋(はたごや)を見過ごした。また、あと2・3日あればジブラルタル海峡(直布罗陀海峡)を渡って北アフリカのモロッコ(摩洛哥王国)に寄れたが、これもできなかった。 (2011.05.19.)

  

 

Created on May 16, 2011. Updated May 25, 2017.

 

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