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中国の東北地区を旅した記録が、以下に書いてあります。汽車の旅行には、毎年4月に発行される「全国鉄路旅客列車 時刻表」(提供:鉄道部運輸局、出版:中国鉄道出版社、2005年版は8元)を使うのが便利です。遼寧省
大連(別ページ)
2日目は朝早く、またまた鴨緑江のほとりの公園を見にいって、北朝鮮をながめながら朝の体操をして、みんなで朝食もろくにしないで、瀋丹高速(丹東〜瀋陽)で北へ1時間くらいのところにある鳳城市近くの名山、鳳凰山へ登った。9:30ごろ鳳凰山入り口で68元を払い、車でロープウェイの出発点である標高200mくらいのところまで行き、そこへ駐車して、ロープウェイに乗らないで、歩いてぐるっと反時計回りに登山を開始し、将軍峰などを経由して、12:00ごろロープウェイの終点近くで昼食。かなり険しい山とは聞いていたが、大変危険な山で、老牛背という戸隠山の「蟻の塔渡り」みたいなところを通り(ここでは急勾配で両方に鉄の欄干を置いている)、箭眼というところが最高点で(標高836m)、そこから下山して、16:00過ぎには登山の出発点に戻り、そこから車で高速道路へ出て、また毎時120kmで飛ばして、20:00過ぎに大連へ帰った。総走行距離:760km。(2006.05.02.)
2回目は、5月末の土日に会社の部門旅行で行った。今回は男性8人、女性5人で、土曜日の早朝会社前に集合して、4時間くらいかけて丹東の街中の鴨緑江の岸辺へ着き、向こう岸に北朝鮮を見て、そこの朝鮮料理屋で昼食。午後は街の少し北にある「虎山長城」と呼ばれる「万里長城東端起点」と宣伝されているとこへ登り、私はここへは始めて行ったが、頂上は洋々たる鴨緑江へ靉河(アイハー)が流れ込み丹東の街も遠望する360度の絶景だった。李白が武漢の黄鶴楼で「唯だ見る長江の天際に流るるを」と詠んだが、まさに「唯だ見る鴨緑江の天際に流るるを」の景色だった。夕方は「阿里郎」というレストランの2階の部屋で鴨緑江を見下ろしながら本格的な朝鮮料理を食べ、終って夜の鴨緑江上の噴水と朝鮮戦争の時に聯合軍に爆撃されて不通になっている「断橋」の写真を撮ったりして、六緯路のきれいな銀杏並木を通って山上街のホテル(九水峡商務酒店)へ帰った。
翌日私は朝早くひとりでホテル近くの錦江山公園へ行ってみて、それから朝食後にはみんなで丹東から1時間北へいったところにある鳳凰山(海抜836m)へまた登った。若い連中は山登りに慣れていなくて、かつこの山は岩場をガードレールにつかまって登る場面が多くて、半分くらい登ったら疲れてしまい、登山半ばのロープウェイで降りてしまったので、私が以前行ったことがある有名な「老牛背」と頂上へは行かなくて、近くのレストランで蕨などの農村菜(田舎料理)の昼食を取ったあと帰途に着いたが、土日ともにすばらしい天気で、大いに楽しんだ。丹東への行き帰りに、建築中の新大連駅と、建設が始まった大連〜丹東鉄道を高速道路わきに見た。また、泊った宿の前の道路に沿って瀋陽〜丹東鉄道(単線!)が通っているのを見て、数日前に北朝鮮の金正日主席もここを通ったに違いないと思い、またこの鴨緑江に沿った細長い町の主要道路は銀杏の並木が美しくて(ここは大連に次ぐ満洲国への入り口だったのだ!)、また来たいと思った。 (2011.05.22.)
3回目は、大連の外国人教会の人々22人(アジア人6人、アフリカ人13人、ヨーロッパ人3人、南北アメリカ人4人)と旧正月の寒い時期に行った。1日目は、朝大連から専用バスで出発して、鳳城市のの鳳凰山で昼食を済ませ、鳳城市内の孤児院(鳳城市鴻雁児童福利院)へ行き、子供たちへ贈り物を届け、そこへ泊った。2日目は、朝虎山長城のそばまで行き、丹東市内のKFCで昼食後、鴨緑江公園で断橋・友好橋を見て、少し北の桟橋から船に乗り鴨緑江へ出て、北朝鮮の島々の間をめぐり、夕方大連へ帰った。 (2012.01.24.-25.)
4回目は、6月のある木曜日に日本人友人と一緒に日帰りでいってきた。観光はすべて省いて、丹東の現在の産業(計測器製造とバス製造)に最近加わったIT産業を見てきた。丹東バスステーションには以前大連で働いていた日本人と彼が顧問をしている中国の会社の社長さんが車で迎えてくれて、まず町の南にできた新城区へ行き(ここに市役所も移っている)、北朝鮮との共同工業予定地・黄金坪を鉄条網越しに見て、去年から建設が始まった新鴨緑江大橋の写真も撮った。(旅行から帰ってさっそく、Wikipediaに「新鴨緑江大橋」を日本語と英語で作っておいた。)次に市内へ戻りこの社長さんの会社へ行き、社員の7割が北朝鮮の人である現実を見て、彼らはおもに平壌市にある金日成総合大学と金正日政治軍事大学の卒業生で、漫画・アニメーションが得意という。私はいまの日本の対北朝鮮外交が、拉致問題だけになっているの(とマスコミが伝えるの)をうれいている。拉致された人の関係者は本当に可哀そうだが、この解決が基本というように見える外交はおかしいと思う。20世紀前半の日本の行動を詫びるのが先決だし、例え中国を通してでも北朝鮮と経済関係を行なうのが正しいと私は思う。(2012.06.07.)
5回目は、盛夏の7月に吉林省延辺への旅行(下記)の途中で1泊して寄ったもの。 (2012.07.16.17.)
日本人として、毎年春と秋にそれぞれ桜と紅葉を見るのに慣れていて、ここ中国で大連は春4月末に旅順・龍王塘の桜を見れるが、秋の紅葉はどこで見るのかこの9年間疑問だった。まわりに聞くと、北京の香山で見れるというだけで、どうやらこれは高校生の時にすべての中国人が習う毛沢東の詩だか文章に出てくるらしく、でも私は以前秋の香山で紅葉を見たが、全然きれいでなかった。数年前にインターネットで調べていたら、本渓市の関門山の紅葉がきれいだというのが分かったが、友人たちで見た人はいなくて、日本語雑誌でもこうした記事が取りあげられることはなかったので、今回日ごろの疑問が解けて、何かスッキリとした。それにしても、この香山に関する詩とは、どういうものなのだろうか。
ツアー参加者36人のうち、10人くらいが子供で、帰路のバスでいつもやるようなガイドさん司会でなく、小学4年生の子供が司会で子供も大人も参加するカラオケ大海があり、子供らしい笑い話やなぞなぞも飛び出して、なかなか面白かった。私も一曲(北国の春)歌ったことはいうまでもない。そこで聞いたなぞなぞを一つ:ある高層ビルの34階に住む人が、いつも32階で降りて、歩いて自分の階へいっている、なぜ? みなさん下に答えてみてください。(正解は、子供なので32階のボタンしか届かない。) (2010.10.06.) その後、本渓から東の国道201号へ行く省道上で、本渓(満族自治)県の大石湖と老辺溝、洋湖溝、桓仁(満族自治)県の五女山にかけてはもっと綺麗だと聞いたので、ぜひ行ってみよう。 (2015.03.14.)
2) 6年振りに瀋陽へいってきました。会社のほぼ全員と一緒に土日に行ったもので、土曜日の朝8時の特急列車に乗り、お昼の12時に瀋陽北駅に着き、すぐ世界花博(世界園芸博覧会)を見にいった。入園して間もなく、大雨に降られて、その後も雨は続きさんざんでした。昼食はレストランでインド料理を食べ、途中でトルコ・アイスクリームも食べ、そこは瀋陽の東郊外のもと植物園だそうで、昔東京・三鷹にある母校の周りが潅木林で囲まれていた情景そっくりの場所で、同僚と雨の中の散歩を楽しんだ。台北A+A(徳増街@北順城路)で夕食、あとは瀋陽商貿飯店(Traders Hotel)に泊まった。翌朝早く起きて、ホテルの前の中華路を新世界百貨・百盛(Parkson)・Walmart・太原商業街(歩行者天国)などがあるぞとブラブラ歩いていたら、突然瀋陽駅に出て、ビックリ。東京駅丸の内口に似ていて(同僚の1人が台湾人で、台中駅もそうらしい)、広場の向かいの3階建ての赤レンガ商業ビルも残っていて、風情があった。ホテルで洋風の朝食後、渾河の南にある東大軟件園を見て、その隣りにある億達集団が開発した「唯美品格」と呼ばれる住宅地区を見て、そこのレストランで昼食後、13:00発の特急列車に乗り、途中車窓に鞍山まで水田に田植えをしているのを眺め、また大連近くになるとニセアカシアの白い花が満開なのを見て、17:00に大連駅へ着いて、解散。(2006.06.04.)
3) 今年も1晩泊まりの社員旅行で瀋陽へいってきた。前回と同じ旅館に泊まり、似たようなところ(棋盤山公園)へいって、秀湖で船に乗り、棋盤山へ登って、近くの万科の別荘地区「蘭喬Rancho、聖菲Santa Fe」、億達の別荘地区「唯美十方Mountain Faryland」(@瀋棋路)を見て、瀋陽駅の写真を撮った以外は、新幹線風列車に乗って大連へ帰った。(2007.10.13.)
4) 中国人友人と土曜日の昼の列車で大連を出て瀋陽へ行き、北陵公園の西に面した鳳凰飯店へ泊り、夕食は泰山路の原味齋(北京ダック)で翌々日に訪問する大専の孫[日華]Ye4先生がおごってくれて、そのあと北陵公園前でみなさんが古い歌を歌うのを見た。日曜日は早朝北陵公園の中へ少しだけ入って見て(広い!)、午前中に東関教会で礼拝して、午後は九・一八歴史博物館へ行った。月曜日は街中の遼寧省の広播電視大学(放送大学)へ行き、そこから派生した東郊外の遼寧職業技術学院へ孫先生を訪ねて行き、図書館などを見学して、教学楼の教室で大連のソフトウェア産業に関するプレゼンを日本語でして、友人が中国語に通訳して、午後の列車で大連へ帰還した。 (2008.06.24.)
5) 「瀋陽・撫順への高速鉄道小旅行」(下記)を参照。 (2013.08.13.-14.)
第2日目は朝食にやはり西塔の全州屋へ寄って、豆芽湯飯を食べて、蘇さんの事務室(@漢丹城ビル)へ行く。韓国人の彼は早くから中国に来て、ゴルフウェアで財をなし、帰ろうと思っていたところ(よくあることで大金を国外へ持ちだせなかったと推察)、以前石油掘削が行われて石油がないと分かった瀋陽の西郊外(遼中県楊土崗鎮靠山屯)の土地を買って、温泉源を探したという。苦節3年でやっと良質な温泉を探し当て、近くの湖も含めて簡素なリゾート地の開発計画を立てていて、その第一歩で温泉水を健康水として売る業者を探しているという。車で瀋大高速道路を楊土崗ICで下りてこの温泉源を見学にいって、温泉に浸かってきた。地下鉄東西線の終点駅や高速道路のICにも近いのでいい所だと思うから、大連の商社の人たちに紹介してみようと思う。その後瀋陽へ戻って、また韓国風昼食@如意石鍋飯。
午後は東関教会へ行く。私はここへはもう5・6回来ていて、スコットランドの長老派牧師のジョン・ロス(John Ross)が初めて聖書を朝鮮語に訳して、その記念館がある所。ホテルで少し休んで、夕方6時に西塔教会(1913年に北朝鮮新義州の女性宣教グループが派遣した金徳善宣教師が建てた朝鮮族教会)へ行き、呉愛恩もと牧師(と宋姫淑宣教師)といろいろ話す機会があった。13才でこの教会へ初めて来て、日本統治下でのことは若くてあまりよく記憶していないが(多分我々に遠慮したのだろう)、戦後北京のバイブルスクールで教育を受けて、文革時代は炭鉱で過酷な労働を強いられて、礼拝が再開した翌1981年に牧師に任命されたといい、宗教弾圧時代の生き字引きだ。7時からの礼拝が始まっていたので、会見を打ち切り、いつものように元気な説教と多くの参会者からなる礼拝に参加した。礼拝が終って、近所の「平壌館」という北朝鮮のレストランへいって、歌と踊りは程なく終わったが、金日成バッジを付けた美人服務員から給仕を受けて簡単な食事後、ホテルへ帰った。 (2013.08.14.)
第3日目は朝7時にチェックアウトして、瀋陽の東隣りの撫順へ向かう。午後訪問することになっている身体障害者の教育機関の李洪謙校長さんが車(瀋陽のBMWも作っている華晨汽車 Brilliance Auto の中華・尊馳V6)を出してくれて、これは最近遼寧省のご用達の車だという。まずは渾河新区へ行き、マクドナルドで朝食。渾河新区は桃仙飛行場と大学と体育施設がある渾河の南地区で、今月末から始まる全国運動会を控えて新しく路面電車ができていて、この日はその通車日(初めて列車を通す日)で、撫順からの帰りに運行中の電車の写真が運よく撮れた。片側5車線という超立派な瀋陽〜撫順高速道路を行って、途中の瀋撫新城まで路面電車が通じていて、撫順に入ると中国ボランティア精神の英雄・雷鋒をたたえる看板がやたらに目に着く。雷鋒は毛沢東と同じく湖南省の出身なのでこのようになったようで、私は彼が鞍山の鉄工所で働いていたと勘違いしていたが、撫順で兵役についていて亡くなった時に毛沢東の精神をたたえる日記を残したのが発見されたという。
この町には撫順戦犯管理所があるので、同行の中国キリスト教史研究者のたっての希望で見にいった。戦前の刑務所に、戦後溥儀など日本に協力した中国人および日本の戦犯千人以上が収容されて、人間改造が試みられた。中国の寛大な計らいで罪を認めて、戦後ここから日本へ帰国した人たちに共産中国を礼賛する人たちが多く、当時資本主義国へ突っ走る戦後の日本で孤立化した悲劇を更に生んでいる。ここは露天掘り炭坑の町で、「西露天鉱参観台」という所を地図で見付けたが、戦前多数の中国人が殺された平頂山も含めて、時間がなくて行けなかった。迎客路教会というのが大きな教会らしいので見つけようとしたが見つからず、中和路教会(@一道街)にたどり着き、1998年にこの教会ができた時に合併されたと聞き、入り口で馬佑平牧師(女性)にもお会いして、立ち話をして、瀋陽のジョン・ロスが撫順の宣教に関係して、戦前日本人が建てた南台教会(戦後、迎客路教会と改名)を合併して、1998年に現在の教会堂を立てたという。参照:写真集『天路霊程、記念福音伝入撫順130周年 Pilgrim's Progress - Commemorating the 130th Anniversary of the Gospel Reaching Fushun 1882-2012』(2012年11月17日、馬佑平主編)。また、これまで中国のキリスト教全般については、Bob Whyte 「Unfinished Encounter, China and Christianity」(Morehouse Publishing, 1988, 0-8192-1527-9, paperback )が良かったが、Daniel H. Bays「A New History of Christianity in China」(Wiley, 2011, 978-1-4051-5954-8, hardcover)が出版されて、好い本だという。
このあと瀋撫道路を戻り、瀋陽で昼食後、東郊外にある身体障害者の教育機関を李校長の案内で訪ねた。去年から始まった学校で、正式名称は「遼寧省特殊教育師範高等専科学校」に変っていて、去年夏に来た時には始まる直前でゴタゴタしていたが、今回は運動場や野菜栽培棟も整備されていた。校長室では日本のこうした学校との交流や専門家の招へいをしたいということで、日本の友人たちへ連絡を取ることにした。それから急いで瀋陽の街中へもどり、帰りの切符を手配してもらっていた韓帝商務酒店で切符を手に入れて(G8062次、181.5元+手数料25元)、瀋陽駅の新しい北入口へ送ってもらい、18:08瀋陽駅始発の高速鉄道に乗り、遼陽に止まり、18:55海城西、19:10蓋州西、20:11大連駅(1号站台)。ラマダホテルの江戸前でソバを食べて、友人を黄河路の和頤酒店へ送り、22時半に帰宅した。
高速鉄道は行き帰り共にほぼ満員で、高速路線では毎時300km、大連駅と瀋陽北駅付近の在来線部分では減速して、でもスムーズに推移していて、予定通り出発・到着できて快適だった。切符も行きは駅で買ったので自動改札、帰りは外部で買ったので手改札で、プラットホームは日本のように在来線と別建てでなくて、在来線と混合で、これは私もパリ〜ディジョンのTGVで経験済みなので(パリ・リヨン駅では出発5分前にどのプラットホームから出るかアナウンス&表示されたらすぐそこへ移動して乗車せねばならないので大変だった)、大変興味深かった。車両がどこで製造したか書いてなかったが、多分北車の長春工場だと思う。これからしばしば高鉄(カオティエ)を使ってみようと思う。 (2013.08.15.)
鉄嶺の町は、鉄道駅の東側にある。2日目の午前中は小雨模様だったのでホテルでブラブラして、銀州路を歩いて駅の写真を撮りにいったが、曇り空でうまく撮れなかった。町のすぐ東側にある龍首山・龍尾山がホテルからその龍が横たわっているような姿がよく見えて、午後からそこへ行ってみると、リスなどもいて恰好の市民の憩いの場になっていて、カエデの木が沢山植えてあり、紅葉もそれなりにきれいだった。頂上らしいところにある秀峰塔は八角形で「風調雨順国泰民安」の八文字が書いてあった。この後、町の東北にある柴河を堰止めた広大な柴河水庫(ダム、1974年建設)を見にいって、満州時代には豊水ダムや豊満ダムが有名だが、中国が建国後すぐこうしたダムを建設しているのは知らなかった。この柴河は街の北西で遼河に合流して、私も一昨年見たように、それが流れ流れて渤海にそそぐようになっている。夕方、レストラン「小鍋豆腐」で農村料理を食べて、その後街中の鉄嶺劇院で毎晩19:30からやっている「二人転」(漫才)を見た。こうした劇場は大連にも3つもあるので以前から見たいと思っていたので、ここの500人くらい入る大きな劇場で終に見る機会があり、5組くらいの男女が話した内容はあまり分からなかったが、22:00過ぎまで歌あり曲芸ありで大変面白かった。
3日目は結婚式・披露宴があり、これは大LED画面を使いカラオケは少ない大連で行なわれる若者の結婚披露宴とそう変わりはなかった。午後は少し休んで、友人の車で街中の清朝から続いた銀岡書院(学校)へ行き、周恩来首相も子供時代にここで6か月学んでいて、その記念館があるのも見た。そこから、鉄道の東側へ出て、南へ向かい、ここは黒土地帯で、トウモロコシだけでなく水稲も沢山あり、前日行った柴河では最近ブドウも作っている、基本的には豊かな農村地帯だった。途中五角湖という湿地帯に寄り、最近町の南西11キロくらいに「新区」(正式には「凡河新城区」)ができて、街中の市政府が2010年5月に移動したエリアを見た。新市政府の建物群の前はダイヤモンド広場([金占]石広場)と如意湖という人造湖があり、それは壮大な(金銭の無駄遣いの)建設が完成していたので、証拠写真を沢山撮った。ここに住んでいる人はまだ少ないが、マンションの価格が3千元/平米で安いので、瀋陽からの地下鉄が延長される予定らしくて、瀋陽の人たちが続々とマンションを買っているという。この日は木槿花(ムクゲの花)という朝鮮料理店で夕食。
鉄嶺の西側はそれなりの工業地帯になっていて、何の産業があるかよく分からなかったが、鉄嶺は3百万都市だそうだ。4日目は日曜日で、帰り際に鉄嶺特産のチェンツ(佳香[木泰]子、ハシバミの実)と野生の干しシイタケ(佳香[サ磨]茹)のお土産をもらい、別の友人の車に乗って大連へ送ってもらう道すがら、完成間近の東北新幹線を横に眺めて東北高速道路を走りながら、私の心の中にある「鉄嶺は田舎の町」の考えを一掃した感じだった。 (2011.10.16.) 大連へ帰って翌日に、面白い話も聞いた。いま撫順市と鉄嶺市は瀋陽市の「大瀋陽」計画に入っていて、総人口は上海をしのぎ、今年この3都市の地域電話番号が024-に統一されたこともあり、上海(021-)・天津(022-)・重慶(023-)に次ぐ直轄市にいずれ承認される予定だというものだ。ただこれは「東北老工業基地」振興政策に関連したもので、対抗大都市は広州・西安など沢山あり、地方分権が進む中、実現は難しいだろうという意見もあった。 (2011.10.17.)
盤錦と錦州は地図で見ると、渤海湾のどん詰まりにある町で、遼寧省北部の鉄嶺あたりから流れてくる遼河、盤錦の少し上流で遼河から分流してくる双台子河、遼寧省西部の朝陽あたりからくる大凌河の3つの大河が海にそそぐところで、それで、渤海は全体が浅く、砂で海水もにごっていて、これら3大河の河口の海岸一帯は広大な芦原になっている。11:20に趙圏河渡暇村で昼食を食べ、12:20に紅海灘の入り口に着いて、ここからがこのツアーの2番目のハイライトで、2005年に大連の会社が観光開発したという。入場料40元と電瓶車代70元を払い、電動車で18km先の海岸へ行き、赤い小さな海草「[石咸]蓬草」(Jian3-peng2-cao3}に覆われた海岸の木道を歩いて遊んだ。9月末に一番赤くなるそうで、まったく今までみたこともないような奇観であった。そこから14:00には「芦園」と呼ばれる一面の葦原に行き、園内の小高い「瞭望塔」などで写真を撮り、遊び、16:00には盤錦街中の大衆花園賓館(@泰山路)に入り、17:30に迎賓飯店で夕食を取り、18:00にはホテルへ帰り、温泉に入って、20:20からホールで出し物があり見て、終ってまた温泉に入り、寝た。
翌日は6:20に起床、6:30に朝食、7:45には出発して、8:45には錦州広域市の北鎮市(北寧市?)にある大朝陽景区内の名山、閭山(別名:医巫閭山、海抜886m)へ登った。これがツアーの3番目のハイライト。幸いまだ観光開発が進んでないので、石段は少なくて、途中はいつくばるような所を苦労して登り、10:15頂上に。一息ついてしばらくして下山開始し、のぼりとは別のルートで、11:00に索道(ロープウェイ)入り口でアイスクリームを買って食べ、11:35に景区入り口に戻り、12:10に付近の恒大酒店で昼食を食べ、12:35にはそこを出発し、途中で溝[邦布]子市で有名な「尹家燻鶏公」(丸ごと燻製の鶏肉)を買い、15:10に西海服務区で休憩、17:30に大連体育場へ帰還した。片道392kmの行程で、ツアーは各自485元だった。中国の女性三代記「ワイルド・スワン」(Wild Swans)の舞台になった錦州市内へはまだ行ってなく、その海岸の筆架山も、また葫芦島へも行ってないので、遼寧省西部へまた行かねばと思う。(2008.20.19.)
2日目は朝、解放大路を西へ行き鉄道とぶつかるところ(省文化庁、のあるブロック)に戦前あったという新京聖公会教会の跡を訪ねたが、見つからなかった。そのあと長春電影製作厰廠に長春電影宮を見にいったが、まちがってそこから電影城にまわされてしまい、50元を払って子供たちが喜ぶような映画村を見た。そこそこに引き上げて偽皇宮(満州帝国皇帝愛新覚羅溥儀の仮皇居、40元)へ行き、午後の長春発15:25の夜行列車に乗り、満員だったので30元を払って食堂車に乗り込み、そのまま居座り、四平(17:25)・通化(22:55)経由で、白河二道へ向かう。
3日目は、白河二道へ到着7:00。駅前に停車中の沢山の三菱自動車Pajeroの1台に7人で乗り込んで、7:35山門--8:10長白山・天文峰2670m(将軍峰2740、白雲峰2691)天池9:00-黒風口--長白山瀑布10元10:10-50元--11:05天池。13:00大宇温泉(1670m、長白山国際=中日)-- 16:15運動員村--山門16:30-30元--白河へ戻る。長白山登山の詳細と写真は、ここを見よ。(長白山の花は、5月末-6月中旬杜鵑花(ツツジ、シャクナゲ)、金達来、紅京天9月始め。)二道の白頭山狗肉館で夕食。丁家宏達賓館へ泊まる。
4日目は、朝7時50分 白河---列車で---通化 10月2日14時31分 40元、15時 通化着。通化で楊靖宇の陵園(右の写真)へ行き、時間があったので川(渾江)向こうの玉皇山公園へも寄り(塔に登ったら、通化の東に大きな鉄鋼所があり空気が悪い町だった)、夕食は国貿大酒店というところで取った。(そこで通化葡萄酒という赤ワインがどうやら日本時代からあるという触れ込みだったので買ってあとで飲んだが、うまくなかった。)19時53分発 通化---列車で---大連 8時16分 185元。5日目の朝、大連駅着。
以下は参考までに:日本の友人が澤地久枝「もうひとつの満州」(文春文庫、1986、現在はほぼ絶版)を貸してくれ、その内容は河南省出身、満州国時代の抗日の楊靖宇(1905〜1940)の足跡を尋ね、北京、山海関、瀋陽、撫順、通化(彼の陵園がある)、吉林省靖宇県、吉林、ハルビン(東北烈士記念館に緑川英子=長谷川テル)を、1981年夏に訪れた旅行記。その中に、張寒暉作詞・作曲「松花江上」:「我的家在東北松花江上...」
わが家は東北、松花江のほとり そこは森林と鉱山、 さらに山野に満ちる大豆と高粱がある。 わが家は東北、松花江のほとり 彼の地にはわが同胞、 そして年老いた父と母がいる。 ああ、9・18、9・18 あの悲惨なときから、 我が故郷を脱出し、無尽の宝庫も捨て去って、 流浪、また流浪、関内をさすらいつづけている。 いつの年、いつの月、 私の愛する故郷へ帰れるだのろうか。 父よ、母よ、 喜んで一堂に会するのはいつだろうか。 |
我的家在東北松花江上, 那里有森林煤鉱, 還有満山遍野的大豆高粱。 我的家在東北松花江上, 這有衰老的父多娘。 ”九一八”,”九一八”, 従那個悲惨的時候, ”九一八”,”九一八”, 従那個悲惨的時候, 脱離了我的家郷,抛奔那無尽的宝蔵, 流浪,流浪,整日価在関内流浪, 口那年口那月, 才能句多回我那可愛的故郷? 口那年口那月, 才能句多収回我那無尽的宝蔵? 父多娘口阿,父多娘口阿, 何時候才能歓聚在一堂? |
第3日目は、前日に申し込んでおいたヤブリ・スキー場日帰り旅行(亜布力滑雪一日遊、240元、ハルビンの東南)に参加し、8:30にホテルを出発、小さな軽バンで4時間かかってスキー場の近くに着き(快晴の比で道路はほぼ良かったが、車の温度が低くつらかった)、オンドルの上で土地の昼食を食べ、1時間ほどスキーを楽しんで(私だけがクリスチャニアもどきができたので、学生たちの大尊敬を得た!)、また4時間かけてハルビンへ戻った。夜21:00ごろ王記醤骨頭館(260-5558)という満州族の料理を出すところへ行き、これは良かった。第4日目は少し疲れて、午前中は少しホテル近くでウロウロしてから、タクシーで南郊外の平房区にある侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館に行き、午後15:00ころ東大直街にある中華東正教会ハルビン教会(聖母守護経堂)も見に行き、隣りのプロテスタント教会(南崗礼拝堂)、その向かい側のカトリック教会を見て、夜やっと(17:30)氷灯節(氷祭り)主会場の兆麟公園へ行き(李兆麟は、上の通化のところで書いた楊靖宇と並ぶ、抗日時代の東北地区の英雄)氷の滑り台で遊んだりして、見終わるとすぐ中央大街の観光名所である華梅西餐庁という白系ロシア人(ユダヤ人)が創設したレストランで夕食を食べ、すぐまた特別快速・夜行寝台車に乗って(T2612硬座特快臥 哈爾濱20:47-大連6:12)、第5日目の朝早く大連へ着いた。
ハルビンの夏は暑いと聞いているので、こうして冬に氷祭りを見に行くのもおすすめ。寒いが、晴れた日が多く、吹雪の日以外はそんなに厳しくない感じでした。札幌の雪祭りに較べて、ハルビンの氷祭は氷のなかに色電球を入れ込むので夜目に大変きれいで、幻想的で、大変いい。ヤブリ・スキー場日帰り旅行は、たった1時間のスキーなので、あまりおすすめできません。[2002.01.20.] 注:友人(戸嶋秀夫さん)が2003年1月、大連から3泊2日(1210元)の格安ハルビン・ツアーにいってきました。この料金で含まれていたのは、大連−ハルビン間列車往復(硬座寝台)、ホテル1泊(3星級)、亜布力滑雪(スキー用具レンタル含む)、氷雪大世界、食事(2日間、3食)、現地移動バス貸切り、添乗員および現地ガイド付き、・旅行保険などです。ただし、食事はあまりおすすめではなかったそうです。[2003.05.13.]
土曜日の朝5:20大連発の列車の軟座(103元)で、途中11:10に瀋陽(397km)を通り、14:02に四平で北西へ向かい、通遼に17:23(793km)につきました。すぐ帰りの切符を買い、その日は通遼賓館(3つ星)で泊まる。翌朝(日曜日)、タクシーで北へ100キロ、2時間のところに(往復で200元)珠日河草原で、この日は朝は10時から、午後は3時から競馬(賽馬sai4-ma3)の連続でした(右上の写真)。翌日(月曜日)は、通遼発6:35で、大連に19:08到着。
注:1.新世紀大酒店が4つ星(380元)で、今年5月完成している(0475-826-6666)のでここがいい。2.「地球の歩き方、大連と中国東北地方」(ダイヤモンド社)の出だしに通遼のナーダムのことがじっくり書いてあるが、どうやら第2日がモンゴル相撲(オ率路-各+交shuai1jiao1)、第3日が射的(射箭she4jian4)のようです。3.通遼近くには大青溝自然保護区という美しいところ(南へ100km、タクシーで2時間)もあり、ここにも寄るといい。4.通遼のホルチン沙漠で日本の「緑化ネットワーク G-Net」が沙漠緑化・沙漠化防止に取り組んでいるようですね。 (2002.08.17-19.)
毎年のこうした華やかなナーダムの裏に、大国中国とロシアに挟まれて暮らすモンゴル民族の悲しい現実があります。まず、近代のモンゴル(外蒙古)が独立の動きを見せるのが1917年、しかしこれは中国の北伐軍に蹂躙される。その後ソ連の援助で独立を勝ち取るのが1921年、これを中国は認めず、スターリンがルーズベルトとチャーチルに対してソ連が必ず日本を中国から追い出すという密約があったヤルタ会談の結果で周恩来が認め、これは1945年に実現される。内蒙古は北京から通遼を通りチチハルに達する鉄道がイタリアにより完成され、昔ナイマン・タリア(8つの畑)と呼ばれた通遼が、内蒙古東部の大きな町になっている。1947年にハフンハ(哈風[口夏戈])などの内蒙古人民革命党(内人党)により自治政府が成立するが、1949年にウランフ(烏蘭夫、Wu Lanfu)などの共産党による政権奪取があり、ハフンハは内蒙古の在北京代表として不遇の身を終える。注:ラマ教寺院は1950年代の「大鳴大放大弁論」と大躍進の期間、古い文化の痕跡を徹底的に壊すというスローガンのもとに全て取り壊され、文化大革命の時に、「破四旧、立四新」のスローガンの基に、少数の例外(シリンホトの貝子廟など)を除いては痕跡無しに徹底的に取り壊された。仏教は古くからチベットに伝えられ、土着の宗教(ボン)の影響を受けてラマ教(ラマは「教師」)となり、7・8世紀に様々な悪習が改められて紅教(紅帽派、ニンマ派)が起こり、その後13世紀フビライ・カーンの時にモンゴルに伝えられ、14世紀代に戒律が厳しい黄教(黄帽派、ゲルク派、新教)が盛んになって、いまの主流派になっている。
内人党はその後共産党に併合されるが、文化大革命の混乱の中で、「[搾-乍+乙]内人党」の内人党狩りで「打死打傷」されて殺害されたの人々はが1,267人あったという。現在、通遼の地域(左中と呼ばれる)は中国語が話され、その西部(后旗と呼ばれる)ではまだモンゴル語が話されている。内蒙古のモンゴル族の文化的悲劇は、小中学校はモンゴル語で学ぶが、伝統的モンゴル文字を使うモンゴル語の専門教科書や学術用語が確立されてなくて(それほど需要がなくて?)、大学ではフフホトの内蒙古大学、内蒙古師範学院(大学)、通遼の内蒙古民族師範学院(大学)などでもすべて中国語で学ばねばならない(もちろんモンゴル語学部はある)。新聞やテレビでの少数民族の観光的大宣伝にもかかわらず、内蒙古の政治機構、教育機構の主要地位は漢民族が占めており、現状以上の少数民族の文化振興はこれ以上進まないのかも知れない。(2004.02.06.)
内モンゴル人の悲劇は、東京の巣鴨にあり内モンゴル料理店「シリンゴル」あたりで、その本音を聞くしかない。内モンゴルの歴史・文化を習った人ならすぐ習う「ガダ・メーリン」(Gada Meilin、中国語で[口夏戈]達梅林)という歌がある。そのすばらしい曲と詩で、人々を魅了する。戦争中・戦後作られたもので、以前は内モンゴルの子供たちもよく歌ったが、人民公社時代から禁止され、最近30年ぶりに解禁された。ガダ・メーリンは人の名で、ガダは「かたまり」というような意味で、モンゴル族によくある名前で、メーリンは軍隊の職位で、ガダ大将というような意味。彼(1892-1931)は東モンゴルのカルチン(科)左翼中旗のバイェンタラ(巴彦塔拉)というから、内モンゴル自治区の東部の中心都市・通遼の少し東で、モンゴル族の王様に使えていたが、王様が瀋陽に居を構える張作霖の手下に金と女で骨抜きにされ、土地を奪われるハメになったのを見かねて、反乱を起こすが、すぐ張作霖の軍隊に通報されて捕まり、瀋陽近くの監獄に入れられる。彼の奥さん、モーダン(牡丹)はガダに輪をかけた気丈な人で、彼のもと部下を率いてこの監獄を襲い、彼を救い出すが、すぐ張作霖の軍隊に追跡され、狙撃されて、彼は亡くなる。モーダンは、満州帝国時代を長春で日本人に保護され(これも悲劇に輪をかけたような話)、戦後も生き延びて、1980年ごろ亡くなっているという。
張作霖が「満州事変」で殺され、息子の張学良が「西安事件」を起こし、怒った蒋介石はその首謀者の楊虎成の目のひとみをはがし、張学良を台湾に長い間幽閉したなどは、よく知られている。ただし、張作霖が漢族の代表として瀋陽に覇を唱える直前は、それまでそこに住んでいたモンゴル族・朝鮮族などと大きな争いがあったことは、想像にかたくない。東京の「シリンゴル」で馬頭琴を聞き、モンゴル料理を食べ、ガダ・メーリンの歌を聞いて、内モンゴル人の悲劇に思いを馳せるのもいいだろう。なお、ガダ・メーリンの映画が2002年に馮小寧監督で作成されたが、これは彼を抗日戦争の英雄と位置付けているので、多少事実とは違う。また、群馬県の劇団がガダ・メーリンの劇を1994ごろ上演している。満州帝国時代の内モンゴルは、日本軍の援助で、東はハフンハが(上記)、西は徳王(ドムチョクドンロブ)が統治していたが、戦後徳王の側近が多く日本へ逃げている。(2007.09.06.)
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