今 週 の 日 課 表
1999年11月29日〜12月5日
ひとりで、家族またはグループでお祈りする場合、下記聖書箇所・
使徒信経・主の祈りに次いで種々の祈りを適当にお用いください。
なお時間の余裕のあるときは、代祷(祈祷書105〜137参照)
をなさる事をお勧めします。
表中の頁数は新共同訳1989年版以降による。
日/ |
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朝 の 日 課 |
夕 の 日 課 |
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曜 |
教会暦日名 |
詩篇 |
第一日課 |
第二日課 |
詩篇 |
第一日課 |
第二日課 |
28 / 日 |
降臨節 第1主日 |
146, 147
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アモス 1:1〜5,13〜2:8 旧P1428 |
ルカ 21: 5〜19 新 P151 |
111, 112, 113 |
イザヤ 1: 1〜9 旧 P1061 |
Tテサロニケ 5: 1〜11 新 P378 |
29 / 月 |
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1, 2, 3 |
アモス 2:6〜16 旧P1429 |
マタイ 21:1〜11 新P39 |
4, 7 |
イザヤ 1:10〜20 旧P1061 |
Uペテロ 1: 1〜11 新P436 |
30 / 火 |
※1 使徒聖 アンデレ日
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5, 6
34
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3: 1〜11 旧P1431 イザヤ 49: 1〜6 旧P1142 |
21:12〜22 新P40 Tコリント 4: 1〜16 新P303 |
10, 11
96, 100 |
1: 21〜31 旧P1062 イザヤ 55: 1〜5 旧P1152 |
1:12〜21 新P436 ヨハネ 1:35〜42 新P164 |
1 / 水 |
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119: 1〜24 |
アモス 3:12〜4:5 旧P1432 |
マタイ 21:23〜32 新P41 |
12, 13, 14 |
2: 1〜11 旧P1063 |
Uペテロ 3: 1〜10 新P439 |
2 / 木 |
※2 日本聖公会初代主教ウィリアムズ |
18: 1〜19 |
4: 6〜13 旧P1432 |
21:33〜46 新P42 |
18: 20〜50 |
2:12〜22 旧P1064 |
3:11〜18 新P439 |
3 / 金 |
※3 アジアの殉教者とフランシスコ・ザビエル |
16, 17
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5: 1〜17 旧P1434 |
22: 1〜14 新P42 |
22 |
3: 8〜15 旧P1065 |
ユダ 1〜16 新P450 |
4 / 土 |
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20, 21:1〜7, (8〜13) |
5:18〜27 旧P1435 |
22:15〜22 新P43 |
110: 1〜5, (6〜7) |
4: 2〜6 旧P1066 |
17〜25 新P451 |
5 / 日 |
降臨節 第2主日 |
148, 149, 150 |
アモス 6 旧P1436 |
ルカ 1:57〜69 新P101 |
114, 115 |
イザヤ 5: 1〜7 旧P1067 |
Uテサロニケ 1: 5〜12 新P380 |
※1
使徒聖アンデレ使徒聖ペテロの兄弟で、主イエスの最初弟子の1人。彼は主御自身から教えを聞いて、その弟子ペテロを御もとにつれてきた。ガリラヤ湖畔で、主を慕ってきた数千人の人が食べ物が無かった時彼は五つの大麦のパンと二つの小魚を見つけて主に差し出した。エルサレム祭のために来た数千人のギリシャ人が主に会わんことを願ったとき、それをとりついだのも彼であった。伝説によれば彼はギリシャのパトラスで殉教したが、主のように十字架につけられるのはおそれ多いいと言って斜十字架につけられ、二万人の群衆に説教しながら死んだと。 アンデレとは「強い」または「男らしい」との意
※
2 日本聖公会初代主教ウィリアムズ (1910年)チャニング・ムーア・ウィリアムズ。日本に派遣された最初の聖公会宣教師で、日本聖公会最初の主教。 1827年北米バージニヤ州リッチモンドで生まれ、幼い時に父を失い、敬虔な母に育てられた。 神学校を卒業すると共に支那伝道を志願した。後に日本伝道を命じられ、1859年7月上旬(安政5年)長崎に上陸した。 当時はキリスト教禁制時代で伝道の道が開かれず、長い間多く困難と戦ったが、よく忍耐して日本聖公会の基礎を築いた。 1866年に主教に聖別され、大阪を中心とし、のちに東京を中心とし伝道した。 1889年には主教職を辞して京都に隠退したが、伝道は一日も忘れなかった。日本に骨を埋める決心であったが、老齢ために同労者の重荷になることを恐れ、1908年4月30日、ひそかに横浜出帆の船で帰国した。2年後のこの日、彼は郷里のリッチモンドで世を去った。彼の墓碑には日本語で「彼は道を伝えて己を伝えず」と刻まれている。 彼の聖徒的生活を語る多くの逸話が伝えられ、「老監督」と愛称されて偉大な感化を残した。
彼は日本に来た最初の宣教師で、東洋の使徒と呼ばれる。パリー大学で勉強中、聖イグナシウス・ロヨラの感化を受け、共にイエス会を組織した。35歳のとき二人の修士と共にインドに派遣され、インド及びマラッカで伝道した。日本伝道のために鹿児島に上陸したのは、1549年8月15日であった。2年3ヶ月間各地で伝道し、将来に大きな期待を持った彼はまた支那伝道を志し、1552年8月、香港に近い上川島に上陸したが本土に入ることを許さず、病気になって同年のこの日、47歳で地上の生涯を終えた。彼の書籍は残されており、彼の東洋伝道の様子を知ることができる。
(公会の祝祭日 聖ヨハネ修士会より)